第二話:孤独な森と芽生える力
あれから、どれくらいの歳月が流れたのだろうか。
洞穴の中で赤子として目覚めてから、おそらく五年、いや七年くらいは経っているはずだ。正確な日付を知る術はない。ただ、洞穴の入り口から見える木々の葉が色づき、枯れ落ち、そしてまた芽吹くのを何度か繰り返したことだけは覚えている。
俺、アッシュ・リンカーの今の姿は、痩せてはいるが、年の割にはしっかりとした体つきの少年といったところだろう。銀灰色の髪は伸び放題で、着ているのは動物の皮を稚拙になめして繋ぎ合わせただけの粗末な服だ。
母親の記憶は、もう朧げだ。俺が三つか四つの頃だったか、食料を探しに洞穴を出たきり、彼女は二度と戻らなかった。森で生きるということは、常に死と隣り合わせなのだと、幼心に刻まれた出来事だった。
以来、俺はこの洞穴を拠点に、たった一人で生き延びてきた。
幸いだったのは、前世――桐生慧としての化学知識と、この身に宿った不可思議な力…錬金術の才能、そしてその代償である『情報奔流』の呪いだ。
最初は苦痛でしかなかった呪いも、経験を積むうちに多少は扱い方を覚えてきた。物に触れる時間を極端に短くする、あるいは意識して情報の流入を遮断する壁を作る…完全ではないが、以前のように触れただけで意識を失うことは少なくなった。
そして、この呪いがもたらす「理解」は、俺の生存に不可欠だった。
例えば、食料の確保。森に生えるキノコや草木に触れる。瞬間、脳を焼くような情報奔流に耐えながら、その組成、毒性の有無、栄養価といった情報を読み取る。前世の植物学の知識と照合し、安全に食べられるものだけを選び出す。最初は何度も毒草に当たり、高熱にうなされたものだが、今ではこの森で安全な食料を見つけるのは容易い。
動物を狩るための罠も作った。前世の知識を元に簡単な落とし穴や蔓を使った罠を仕掛け、時には石を投擲して小動物を仕留める。解体も、最初は見よう見まねだったが、例の「力」を使えば、骨や筋の構造、急所などが手に取るように理解できた。もちろん、触れるたびに激しい頭痛と疲労が伴うので、必要最低限に留めているが。
錬金術そのものの試行も続けてきた。
「…っ、集中…!」
洞穴の奥、焚火の明かりが揺れる中、俺は手のひらに乗せた粘土塊に意識を集中させる。前世で学んだセラミックスの焼成プロセス、分子構造の変化のイメージ。それを、この世界の法則…マナと呼ばれるエネルギーの流れに乗せて、粘土へと働きかける。
《理解》――粘土の組成情報が流れ込む。頭痛。
《分解》――イメージの中で、粘土の分子結合を一度解きほぐす。
《再構築》――理想とする、硬く、水を通さない器の形へと、マナを触媒に構造を組み替えていく。
じわり、と粘土が熱を持ち、形を変え始める。最初は歪な塊しか作れなかったが、今では簡単な杯や皿程度なら錬成できるようになった。
パキッ、と小さな音を立てて杯にひびが入る。
「…くそ、またか。マナの配分が均一じゃなかったか、あるいは…温度変化の想定が甘かったか…」
錬金術は万能ではない。等価交換の法則は絶対だ。材料が足りなければ何も生み出せないし、元の物質とかけ離れたものを作ろうとすれば、膨大なマナと、何より正確な「理解」…つまり知識が必要になる。そして、少しでもプロセスを間違えれば、失敗作ができるか、最悪の場合は暴発して危険なエネルギーが放出される。
(やはり、体系的な知識が必要だ…この世界の法則、マナの性質、そして錬金術そのものについて…)
俺の知識は、前世の化学と、この「情報奔流」の呪いによって得た断片的な情報だけだ。あまりにも偏っていて、不完全すぎる。
孤独は、思考の時間を無尽蔵に与えてくれた。前世の記憶を反芻し、化学、物理、数学の知識を整理する。そして、この世界の森で得た情報を組み合わせ、法則性を見出そうと試みる。
なぜ空は青いのか。なぜ火は燃えるのか。なぜ植物は育ち、動物は動くのか。前世の知識で説明できることもあれば、全く異なる法則が働いているように思えることもある。特に、魔力素(マナ)と呼ばれるこの世界の根源エネルギーと、時折遭遇する不可思議な生物…魔獣や魔物の存在は、前世の常識では説明がつかない。
洞穴の壁には、木炭で描いた即席の世界地図や、理解しようと試みている錬金術の概念図、そして未だ解明できない疑問符がびっしりと書き込まれている。知識への渇望は、前世よりもむしろ強くなっているかもしれない。この未知の世界は、探求すべき謎に満ちている。
「…そろそろ、水汲みに行かないとな」
錬成したばかりの(少しひび割れた)杯を手に、俺は立ち上がった。洞穴から少し離れた場所に、比較的安全な小川がある。
洞穴の入り口に立つと、午後の柔らかな日差しが森の木々の間から差し込んでいた。緑の匂い、土の匂い、そして微かに混じる獣の匂い。五感が捉える情報は、俺がここで「生きている」ことを実感させる。
ふと、森の奥深くへと視線を向けた。
この森の向こうには、何があるのだろうか。村は? 街は? 俺以外の人間は、どんな暮らしをしているのだろうか。錬金術は、この世界でどう扱われているのか?
(いつまでも、ここに籠っているわけにはいかない…)
知識を求めるなら、未知の世界へ踏み出すしかない。この呪いを解く手がかりも、あるいは外の世界にあるのかもしれない。
だが、同時に恐怖もある。一人で生きる術は身につけたつもりだが、それはこの慣れた森の中での話だ。外の世界には、どんな危険が待っているか分からない。人間社会というものも、前世の経験からして、決して安全な場所とは限らない。
「…もう少し、準備が必要か」
護身用の武器、サバイバルのための道具、そして何より、この錬金術の精度をもう少し上げなければ。
俺は小川へと歩き出しながら、思考を巡らせる。必要な素材、試してみたい錬成、そして来るべき旅立ちの日のために。
孤独な森の中、少年は一人、来るべき未来に向けて静かに牙を研ぎ澄ます。その掌に宿る力が、祝福なのか呪いなのか、まだ知る由もないままに。
その時、俺の鋭敏になった聴覚が、遠くで微かな金属音と、人の話し声らしきものを捉えた。
「…!?」
この森の奥で、人間? それとも…。
俺は咄嗟に身を隠し、音のした方角を凝視した。胸が高鳴るのを感じながら。
未知との遭遇は、あるいはもう始まっているのかもしれない。
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