第22話 「月夜の合図」

「……少し、話がしたくてね」


ケイの声は静かだった。けれど、月明かりの下、その瞳だけは揺れていた。


ネアは地面に倒れたまま、網の中で息を整える。逃げ道を断たれた狼のように、油断のない目でケイを見つめていた。


「好きにすればいいわ。どうせ──終わったことよ」


「終わらせたくなかったんだ」


ケイはその言葉を抱くように、ゆっくりと地面に膝をついた。網に手をかけることもなく、ただ目の高さを合わせる。


「君が、誰かを裏切る理由を、ちゃんと聞きたかった。そうしないと……前に進めない気がして」


ネアは小さく笑う。ひび割れた、冷たい笑いだった。


「私に情でも移った? 甘いのね、あなた。カーヴァル家の命令よ。それだけの話」


「命令にしては、ずいぶん心を痛めてたように見えた」


ケイは、静かに目を伏せた。あの日、群衆の後ろで微笑んでいた彼女の姿。あれは勝利の笑みではなかった。どこか、壊れかけた人間の、無理に貼りつけた仮面だった。


「……生きるには、必要だった。そうしなければ、誰も守れない。誰も……救えないのよ」


ネアの声が震える。月明かりに、過去の影がにじむ。


ケイはそっと、小さな袋を取り出した。中から現れたのは、木片で作られた短い笛。


「これ──音だけで合図が送れる。森で拾った残響材を使ったから、人には聞こえない。でも、俺にはわかる」


ネアの瞳がわずかに揺れる。


「……合図?」


「二回短く、三回長く。俺にしか届かない“呼びかけ”だ」


ケイはそれを、網越しに差し出した。


ネアは、じっとケイを見つめる。


「……信じる理由が、どこにあるの?」


「理由は、ない。けど……君を見たとき、何かが引っかかった。懐かしさ……というのとも、少し違う。だけど、目が離せなかった」


ネアは言葉を飲み込んだ。

その感覚は、自分の中にもあった。けれど──認めたくなかった。


「君が、どこへ行ってもいい。けど……帰りたくなったら、ちゃんと迎えに行くよ」


ネアは迷いながらも、そっと笛を受け取った。小さな木のぬくもりが、なぜか手の奥に沁みる。


「……ありがとう。でも、これは借りただけ。返す日が来るかは、分からない」


「それでもいいさ。鳴らさなくてもいい。ただ……持っていてくれたら、それで」


ふたりの間に、短い沈黙が流れる。


──そしてネアは、ほんの少しだけ、笑った。


「……変な人ね。昔、どこかで──」


彼女は、言いかけた言葉をのみ込んだ。


ケイもまた、同じように静かに頷いた。


夜の風が木々を揺らすなか、小さな笛が、風に触れたようにかすかに鳴った。

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