瞳の奥のブルー

諏訪野 滋

瞳の奥のブルー

 二週間前から付き合っている彼氏と、初めて喧嘩をした。朝食で作ったサラダに意見されて私がキレた、とかいうつまんない理由。ブロッコリーとアボカドを混ぜ合わせて粒マスタードとオリーブオイルを加え、仕上げに真っ赤なパプリカを散らした自慢の一品だったのに、それを雄介ゆうすけの奴。


「いや、赤とかどうでもよくね? 黄色でも緑でも、美味しければそれでさ」


 ああ、価値観が違う奴を私は選んでしまったのか、と少し色あせた気持ちになりながら、深呼吸した私は努めて冷静に反論を試みた。


「料理っていうのは、五感で楽しむものなのよ。味だけじゃなくて匂いや食感、音も大切だし、そしてもちろん色彩だってそう。特に赤緑サラダはね、美味しそうに見えると実際に感じる人の割合が高い、っていう研究データもあるんだから」


 理屈っぽいな、可愛げのない女の子だと思われているだろうな、と少し後悔した私に、雄介は苦笑しただけで赤のパプリカと緑のブロッコリーを同時に口に放り込んだ。


「気を悪くさせたのならゴメン。料理で重視する項目が俺と違っていても、香織かおりが作ったサラダが美味しいことに変わりはない、ってことが言いたかっただけなんだけれどな」

「重視する項目、ってなによ。雄介は明らかに味覚より視覚を下においているじゃない」


 美術大学に通っている私は、自分の得意分野をないがしろにされたような気がして、つい意固地になってしまう。


「だいたい雄介はちょっとニブいよ。私が部屋に花を飾ったってなかなか気付かないし、スリッパの色を変えた時だってそう。デコレーションのし甲斐というか、張り合いがない」


 私に言われっぱなしの雄介は、ごちそうさま、と言って立ち上がると、笑顔を絶やさずに私の前に立った。


「いや、俺にだってこだわりくらいはあるよ」

「嘘ばっかり、言ってみなさいよ」


 雄介は指を伸ばすと、彼から借りて羽織っている私のワイシャツのボタンを外した。顔を赤らめる私に、雄介はすました顔で続ける。


「香織のこれ、俺は好きだな」


 これ、って、このブルーの下着の事? うう、こいつ本物の馬鹿だ。そういえば昨夜もベッドの上で、青カワイイとか連発してたっけ。


「あんたねえ。それって色のこだわりとかじゃなくて、ただヤリたいだけでしょ」

「はは、バレた? そんなことよりせっかくの日曜だし、どこかへ遊び行こうよ。俺が車出すからさ、機嫌なおして」


 手を合わせて謝りながら悪びれもせず笑う雄介に、調子がいい奴、と私もつい笑顔を返してしまう。確かにブルーの下着で私たちの夜がより盛り上がるのであれば、それはサラダにおける赤いパプリカと同じ役割を果たしているのかもしれないけれど。


「だったら雄介。ちょうどこの近くで、つつじ祭りってのをやってるから見に行かない? 前からちょっとチェックしてたんだけれど、絵の題材としてうまい具合に写真が撮れたらいいなって」


 雄介はわずかに視線を宙にさまよわせたが、すぐに笑顔を取り戻してうなずいた。


「悪くないね、了解」


 そうと決まれば、と着替えるためにシャツを落とした私は、背中に熱い視線を感じる。懲りない奴と振り返った私は、案の定動きを止めている雄介に、こっち見るなスケベと舌を出した。




 地方の美大に進学した私は、他大学との合コンで雄介と知り合った。何でも彼は、理学部に所属して数学を専攻しているらしい。私とはあまりに畑違いなので雄介が語る学問の話題には全然ついていけないのだけれど、それはきっとお互い様で、彼が私が振る色彩についての蘊蓄うんちくに食指が動かないのも同じことだろうし。それに自分にとって全く知らない世界の一端に触れるのは、それはそれでほろ酔いのような気分に浸ることができて、私には決して不快ではなかった。


 信号が青に変わり交差点を右に折れると、開けた道の両側が赤く染まった。五月の涼しげな風が車内を横切り、萌える草の匂いが街の停滞した空気と置き換わっていく。適当なところに車を停めた私たちは、仲違いの後だというのにお互いに現金なものだと思いながら、しっかりと手をつないで公園のゲートをくぐった。

 アザレアピンク、クリムゾンレッド、オフホワイト、パープルマゼンタ……汗ばむ手でパンフレットを握りしめながら、私はモザイクのような色とりどりのつつじに目を奪われ続けた。自然の美を何とかものにしようと日々学んでいる私は、自分の無力さを感じて思わずため息をついてしまう。


「凄い、つつじって本当にいろんな種類があるんだね。この真っ赤なのがヤマツツジ、向こうにあるピンク色のやつがクルメツツジ。リュウキュウツツジなんていう白いのもあるんだって」


 興奮しながら隣を見ると、雄介は花の方には目もくれず、あろうことか頭上の空を見上げていた。


「……ああ、綺麗なもんだな」


 私はむっとした。確かに快晴で気持ちのいい真っ青な空ではあるけれど、それにしても目の前につつじが咲き誇っているのにそれはないんじゃない? 言い返す私の口調も自然とげとげしくなる。


「ねえ。せっかくのつつじ祭りなのに、どうしてぼうっと空なんか見てるのよ。ひょっとして何か怒ってる? 朝のこと、まだ根に持ってるんでしょ」


 雄介は困ったように肩をすくめると、私の手を取って高台の方へと歩きだした。


「ちょっと、どこ行くの」

「もう少し景色のいいところに行かない? 空が近いところに、さ」


 またしても空か、やっぱり波長がずれている相手を選んでしまった私のミスなのだろうか。雄介と私とでは、最初から見ているものが違うのかもしれない。リアリストで理詰めの彼には、ロマンチストで夢見がちな私は似合わないのかな……いや、必ずしもそういうことではないのかもしれないけれど。

 小さくため息をついた私を心配そうに振り返った雄介は、しかし足を緩めることなく庭園のはずれにある丘の上まで私を連れて行った。木製のベンチに腰を下ろすと、良かったら隣座りなよ、と言いながら座面のほこりを払ってくれる。いつも私の事を気づかってくれる、決して無神経ではないはずの彼なのに。すれ違いなど、まったく私の本意ではないはずなのに。

 前かがみに広い園内を見下ろした雄介は、目を細めながら私に尋ねた。


「香織はさ、どのあたりのつつじが一番綺麗に見える?」


 どうせ興味ないんでしょ、と半ばあきらめつつ、私は眼下に群生している一隅を指さした。


「ヤマツツジ、かな。私は赤が好き、青が好きな雄介には悪いけれど」


 我ながら嫌な言い方だ、と唇をかんだ私に、雄介は気にした様子もなくうなずいた。


「俺もあの辺り、綺麗だと思うよ。香織が言うところの赤ってのがさ」

「別に、私に話を合わせようとしてくれなくても……」


 言いかけた私は、驚いて雄介の顔を見た。私が言うところの、赤? どこか寂しげな彼の視線は、鮮やかなつつじのコラージュから動かない。


「俺、香織が話している赤と緑の区別がつかないんだよね。D型弱度、ってやつ。俺が見ているこのつつじ園は、緑と白のツートンに近い感じで見えているわけなんだけれど」


 まさか、と私は頭をぐわんと殴られた思いで、穏やかに笑っている雄介の瞳を見つめた。色覚多様性のタイプD、赤と緑の境界があいまいになり区別がつきにくい見え方。それについては、配色に関するユニバーサルデザインの授業で確かに学んだはずなのに。


「じゃあ、今朝のパブリカって」

「悪い。俺、パプリカとブロッコリーが同じ色に見えるからさ。でも香織のサラダが美味しかったってのは、掛け値なしに本当だぜ」

「……どうして、早く教えてくれなかったの」

「はは、やっぱり言うのが怖くてさ。でもそうだな、確かに俺が悪かった」


 私、馬鹿だ。自分が見えているものはきっと相手にも同じように見えている、そんなふうに私は今までずっと信じ込んでいた。雄介はそれが正しくないことが分かっていたのに、知らなかったとはいえ彼を傷つけていた私を、ずっと許してくれていたんだ。


「ごめん。雄介、私」

「そこで香織が謝るのは、なんか違くない? 香織が俺が見ている景色を理解できないように、俺だって香織が見ている景色を理解できないんだから。それはただの個性だろ、正しいとか間違いとかじゃない」


 うん、うんとうなずく私の肩に手を回した雄介は、けれどな、と頭の上を指さした。


「俺もいろいろ調べてみたんだけれど。どうやら青に関しては、俺と香織の見え方って似ているらしいんだな、これが」

「え、本当?」

「もっとも、青と紫も俺には少しわかりにくくはあるんだが。それでもこんなに真っ青な空なんだぜ、きっと香織にも俺と同じように見えているんじゃないかな。頭の中での勝手な想像だから、俺たちのどちらも確かめようはないんだけれど」


 天を見上げた私は唐突に悟った。私の視界一杯に飛び込んでくるこの色は、青という名の私の気持ち。晴れて、澄んで、偽りのない私のアイシテルが変換された心のイメージ。そして私が互いに望むのは。


「ううん、絶対に同じだよ。とてもきれいな、青」


 自分の網膜に映るブルーを、私は補正して脳内で再生する。明度と彩度のそれぞれのダイヤルを、雄介の優しさでチューニングして。出力されたものを答え合わせしたくて隣を見れば、雄介の瞳の中に私の姿が揺れて見えた。


「それで、どうかな。香織にとってはお試しの二週間だったと思うけれど、俺たち、もう少し付き合ってみる?」

「もちろん。私の誕生日って九月だから、せめてあと四ヶ月はお付き合いして欲しいかな。素敵な彼氏が私にプレゼントしてくれるまではね」


 ええ、と雄介はおどけて身を引く。


「おいおい、そんな理由かよ……で、何が欲しいの?」

「誕生石の入ったピアス」


 雄介は考えを巡らせていたが、すぐに私の意図に気付いたらしい。


「九月の誕生石。ひょっとして、それって」

「ご名答、サファイア」


 雄介の首に両腕を回した私は、涙を見られないように彼の耳にささやいた。


「ブルーのピアス、私と一緒に選んで。ずっと大切にするから」


 時間はたっぷりある、これからゆっくりとお互いのことを知っていけばいい。雄介が愛されていることに不安になるのであれば、私は約束でそれに応えたい。それは束縛ではなく誓いだと、私は信じているから。




 風が冷たさを含んできたことに気付いた私たちは、ベンチから立ち上がると腕を組みながら階段を下りて行った。つつじが放つ芳香が渦を巻きながら、遠く街の方へと流れていく。


「なんか腹減ってきたな。家帰ろうか」


 私は上目づかいで、雄介の反応を試してみたくなる。


「着いたらすぐにご飯食べたい? 今も私、ブルーの下着つけてるけれど」

「……へえ、はかどるね」


 雄介の目には、赤くなっているはずの私の顔はどんな風に見えているのだろうか。目に映る景色は違っていても、二人はきっと同じ夢を見ている。そしてその色は、いつも……


 

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