今をなくしたくなくて。 feat.ソラ
桜が散り始めた四月の午後。
ソラたちは高校三年生に進級して、その時点ではまだ、夏美の祖父が健在だった。
週明けにテストがあるから、ソラと夏美は試験範囲の勉強をしていた。
リクは「休みは休むためにあるんだ。土日に教科書を開きたくない」と言って走りにいってしまった。
窓から入る穏やかな風が、ページをめくる。
ローテーブルでソラの向かい側に座る夏美は、猫クッションを抱えてペンを持ったまま、こくりと首を傾げる。
そして── そのまま、机に突っ伏した。
ソラは夏美の寝顔を見つめた。幼さが減り、少しずつ大人の女性に近づいている。でも、まだ大人ではない。
机に伏せたまま静かに呼吸を繰り返す姿は、小さい頃から何も変わらない。
「少しくらい、警戒してくれてもいいんじゃないかな……」
眠ってしまった夏美に言っても仕方のない話だけれど、男として意識されていないことが残念でならない。
けれど、警戒されていたら、二人きりで勉強なんてしてくれないに決まっている。
なら、今のほうがいいのかと問われてもウンと言えない。
恋愛マンガでよく、幼なじみと離れることになってようやく恋を自覚する。……なんて話があるけれど、夏美がその一般論と同じな訳がない。かなり鈍い部類に入るから、ソラからアプローチしない限りは気づいてくれないだろう。
東大受験を考えていることを、まだ夏美に打ち明けられていない。推薦入試の時期を考えると十二月には言わないといけない。
「もし合格できたら、一緒に東京で暮らしてほしい」なんて、ドラマみたいなロマンチックなことを言えたらいいのに。
ソラの気持ちも知らずに、夏美はすうすうと静かな寝息を立てて眠っている。
(……キス、してみたいな)
恋人なら、こういうときキスしたって許される。でも告白する勇気はない。
拒絶されたら、平静でいられる自信がない。
結局、ソラは静かに息を吐いて、伸ばした手を引っ込めた。
クローゼットからブランケットを出して、夏美の肩にかける。
なんだかミルクに似たいい匂いがする。夏美は制汗スプレーやコロンをつけないから、これは夏美本人の匂いだ。
このまま時が止まってしまえば、誰にも邪魔されずに二人きりでいられるのに。
はやる鼓動をなんとか落ち着かせて、教科書のページをめくる。
試験範囲の文言に目を通してもぜんぜん頭に入ってこない。
(早く起きてくれないと、僕が保たない…………)
三十分ほどで夏美は目を覚ましたけれど、勉強にならなかった。
それからしばらくして、夏美の祖父が亡くなり、蒼井家は福岡へ引っ越しすることが決まる。
居心地の良い関係を失いたくなくて、告白するのを恐れていたことを、心の底から後悔した。
離れたくない。ずっと一緒にいたい。その一言を言うだけなのに、友だちですらいられなくなるかもしれない恐怖のほうが勝ってしまう。
告白する勇気が持てないまま、夏美が引っ越す前日……八月八日がおとずれた。
今を失くしたくなくて。 END
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