変わらない手のひら。 feat.夏美

 中学生になった年の七月。

 夏美は生理が来ていて、朝から体調が悪かった。

 最悪なことに朝イチの授業は世界史。視聴覚室で三十分もあるビデオを見ることになった。

 出席番号順に座ると、夏美の席はクーラーの真下。


 暗がりの中、夏美は必死に寒さを耐えていた。

 冷気が肌に突き刺さるようで、腕をさすっても震えが止まらない。


 世界史の丸山まるやま先生は太っちょで汗っかきな男性。

 暑いのが嫌いだと言って、クーラーの温度をガンガン下げる。設定温度は二十度になっていた。

 そのせいで、真夏なのに現在視聴覚室は極寒。

 下腹部の痛みは増すばかり。内臓を雑巾しぼりみたいにねじられている感覚だ。


(寒いし、おなか痛いし、もうやだ……。よりによって世界史。丸山先生に保健室行きたいなんて言えるわけないじゃん……)


 丸山先生は、以前も生理痛で辛いからクーラーを止めてくださいと頼んだ女子に「生理は病気じゃない、甘えるな!」と一蹴した人だ。それ以来、女子生徒全員から関わったらいけない敵認定されている。辛いときにパワハラ暴言をくらうのは嫌だ。


(どうせ我慢しろって言われるだけ……。前回、佐伯さえきちゃん泣かされてたな……。病気じゃなくてもめちゃくちゃお腹痛いって………。つら……)


 もう最後まで我慢するしかない。そう考えていたとき、ソラの声がした。

 声変わりが終わったばかりでまだ不安定な声が、はっきりと先生に言う。


「先生。青井さん具合悪そうなので、保健室に連れて行ってもいいですか?」


 夏美は息をのんだ。

 理不尽なことを言っているのは丸山先生だ。けれど、いくら正論とはいえ、教師にたてつくとソラの立場が悪くなる。

 なのにソラは臆せず、夏美のために行動に出た。

 丸山先生はめんどくさそうにため息を吐き、眉を寄せる。


「はぁ? 具合が悪いだ? 別に座っているだけなんだから、何も負担はないだろう? 甘えたことを言うな」


 その瞬間、ソラの声のトーンが冷たくなった。ありえないパワハラ発言に、他の生徒たちの表情もこわばる。


「いいえ。明らかに顔色が悪いです。このまま放置して悪化して、救急車を呼ぶ事態になったらどうします?」


 丸山先生の顔がわずかに引き締まる。


「そうなったら僕は救急隊に証言しますよ。丸山先生が、『座っているだけなら負担はない』と言って具合が悪い夏美を放置しました、って。この学校の教師全体の責任を問われることなります」


 冷静に、理詰めで追いつめる。

 丸山先生はしばらくソラを睨んでいたが、やがて「……仕方ないな」とため息をついた。

 女子生徒のことは親の仇かというレベルで執拗に責めるが、男子生徒相手にはそこまで強く出ない。

 か弱い相手にだけ暴力的で傲慢。そういう性格だから、女子生徒は丸山先生の前で何も言わないのだ。



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 ソラは黙って夏美の手を引いて、視聴覚室を出た。

 夏美はしばらく廊下を歩いて小さく息を吐く。

 夏美の体は冷えすぎて、歯の根が合わない。繋がれたソラの手がすごく温かく感じる。

 温かいだけでなく、とても頼もしい。


「……ごめ……、ありがと、ソラ」


 ソラのおかげで助かったけれど、夏美を助けたせいで先生からソラへの評価が落ちるのは嫌だ。

 一応大人だから子供じみた八つ当たりなんてしないかもしれないけれど、やはり不安だった。

 ソラは大したことないという顔をしている。


「先生、おこって、る。ソラも、私をたすけたら、おこられるよ」

「そんな些細なこと気にしなくていいよ。丸山先生の機嫌より、夏美の体調のほうが心配。こんなに冷えてる。はやく保健室の先生に見てもらいな」

「……んと、に、ありがとう」

「僕もあとから行くから、先に保健室に行ってて」


 夏美はソラに促されるまま保健室に行き、養護教諭のまさ子先生に生理で具合が悪いことを説明した。

 ベッドに腰を下ろすと、まさ子先生が申し訳なさそうに言った。


「ごめんね、青井さん。本当は痛み止めをあげたいんだけど、法律の問題でできなくてね。ナプキンはあるからね。足りなかったら遠慮なく言うのよ。楽になるまで、ここで休んでていいからね」


 薬は出せないけれど、と、代わりに白湯をもらった。夏美はマグカップのお湯に口をつけて、飲み終えてからベッドに横になる。

 まだ初潮から数ヶ月しか経っていないから、生理の痛みに慣れていない。低くうずく痛みに顔をしかめながら、先生にお礼を言った。


「……ありがとうございます」

「白湯でよければいくらでも用意するから、飲みたくなったら言ってね」


 まさ子先生の温かい声に、夏美は少しホッとする。

 けれど、下腹部の痛みが引くわけではなく、クーラーで冷えた身体はまだ震えていた。

 そのとき保健室の扉が開いて、ソラが入ってきた。


「あら、どうしたの。あなたも具合が悪いの?」

「具合が悪いのは僕じゃないです。青井さんにこれを持ってきただけです。……夏美、これ使って」


 ソラは長袖のジャージを夏美に差し出した。そういえば今日は世界史のあと体育の授業がある。だいたいの生徒はこの時期半袖短パンの体操着しか持ってこないけれど、ソラはいつも長袖を着ていた。


「でも……上着がなかったらソラが寒くならない?」

「僕は大丈夫だから気にしなくていいよ。体をあたためたら、少しは楽になるでしょ」


 夏美が遠慮しようとしても、ソラは夏美が使うように言ってジャージを押し付ける。


「休み時間にまた来るけど、まだ辛いなら体育も見学って先生に伝えておくから、遠慮なく言って」

「ありがとう」


 ソラはそれだけ言い残して、また授業に戻っていった。

 

「青井さんのお友だち?」

「幼なじみです。ソラは昔から、私が体調を崩したときなんか真っ先に気づいてくれるんです」

「そう。頼りになる幼なじみがいて良かったわね」

「はい」


 ソラの上着に袖を通すと、夏美にはかなりブカブカだった。当たり前だけど、ソラの匂いがする。



(ソラが気づいてくれて、よかった。小四までは身長ほとんど変わらなかったのに、今じゃソラのほうが背が高いんだよなぁ。さっきも、ソラのほうが手が大きかったし……なんだかんだ、私が困ってるとき、まっさきに手を差し伸べてくれるんだよね………。大きくなっても、あたたかいのは、変わらないな)


 そのままウトウトして、眠りについた。

 どれくらい経っただろう。間仕切りのカーテンが開けられた。


「青井さん、一限終わったわよ。大丈夫そう?」

「はい。ありがとう、ございます。先生」


 白湯と上着のおかげもあってか、体があたたまっている。ベッドから降りようとして体を起こすと、上着のポケットに入っていたものが滑り落ちた。

 ひろいあげると、それはソラの生徒手帳だった。入学式で撮った、ソラとリク、夏美三人が並んだ写真がページの間に挟まっていた。

 夏美の部屋にも同じものが飾ってある。

 なんだかほっこりして、生徒手帳をポケットに戻す。


「夏美、大丈夫?」

「夏美。大丈夫かー?」


 ソラだけでなく、リクも様子を見に来てくれたようだ。


「ありがとう、大丈夫だよ」


 上履きをつっかけて、夏美は二人に答える。

 自分の中に芽生えた僅かな気持ちに、夏美が気づくのはまだ先のこと。





 変わらない手のひら。 END


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