第8話 灯油

残業間際の静まり返ったフロア。尾崎は自席に戻ると、スーツの内ポケットからスマホを取り出した。


《From:一ノ瀬 歩》

《件名:公安経費リスト(冬季)》


メールを開く。添付されたPDFファイルを指で広げ、尾崎はデータをざっと見渡す。


「……ストーブ用灯油。18L缶、2本」


その行で指が止まった。


他の部署は、非常食や防寒毛布などを購入しているなか、公安の記録にはなぜか灯油缶が二缶。しかも、1月上旬――大雪直後の日付。


尾崎はスマホを伏せると、静かに椅子の背にもたれた。


(普通なら見落とす。だが、これを見た瞬間、俺の中で“あの夜”が蘇った)


石岡旋が命を落とした、あの冬の火事。現場に残されていたのは、市販の灯油缶の一部破片。そして、それがあまりに「新しかった」こと。


(防災や暖房なら、せいぜい一缶。だが二缶も買うか? しかもビルはセントラルヒーティング。必要ないのに、組織で買った……これは、“疑われないように買った”ってことだ)


指がスマホの枠を強く握り込む。


(しかも、冬を選んだのも狙いか……。誰も灯油の購入に疑問を持たない季節に、あえて燃料を用意しておく。堂々と、証拠を手に入れながら、証拠として残らないように)


(やっぱり、7年前と今年の1月に二缶購入されてる。俺の推理が正しければ、公安は2回燃やしたということだ)


ふと、昼間に宮島が懐から取り出したものを思い出す。


――細身の銀色のペン。

尾崎しか知らない、「石岡が胸ポケットに忍ばせていた小型カメラ」とまったく同じ形状だった。


(……あれを、なんの迷いもなく使っていた。石岡が亡くなった夜、唯一“小型カメラの存在”を知っていたのは、俺だけのはずだ。……なのに、なぜ、宮島が?)


スマホを握る手が、静かに震えた。


(……石岡を殺したのは、あの夜に潜んでいた“もうひとり”じゃない。指示を出した――もっと上にいた存在だ)


尾崎はスマホを胸ポケットに戻すと、静かに立ち上がった。


「……あとは、宮島が何を言うか、だな」





静まり返った工場群の一角。鉄骨がむき出しになった焼け跡が月明かりに照らされていた。黒焦げた地面には、まだ焼けた鉄と油の匂いが残っている。


尾崎と水野が無言のまま、火災現場の金網を越えた。


「……ここ、先月燃えた工場の跡ですよね」


水野が訊くと、尾崎は軽く頷き、ポケットからスマホを取り出してメールを開く。


「さっき一ノ瀬から公安の出費リストが届いた。7年前と今年の1月。冬季に灯油を二缶、妙にタイミングが合ってる」


「……二缶? それって普通じゃ……」


「いや。通常は予備で一缶あれば十分。しかも、一般部署はストーブの申請が先にあるはずなのに、ここは逆だった。“灯油”だけが先行してる」


水野は眉をひそめた。


尾崎はスマホを見ながら、焼け跡の中央へと歩いていく。


「ここで使われたのも灯油。調査報告では“事故の可能性あり”とされたが、液体の痕跡が明らかに故意に撒かれていた」


彼はしゃがみ込み、焼け焦げた鉄柱を指差した。


「この焼け方……見覚えがある。7年前、石岡が調べてた放火現場も、まったく同じように“火元が分かりにくいように拡散”されてた」


「つまり……」


「“同じ奴”が仕掛けた可能性が高い。そしてそいつは、放火事件を“事故”として処理させる手口に精通していた」


尾崎は立ち上がり、焼け跡を見渡す。


「火は証拠も記憶も消せる。だが、癖までは消せない。“灯油の二缶”――これは、同じ犯人がまた動いた証拠だ」


水野の表情が引き締まる。


「……まさか、公安の中に……?」


「断定はしない。ただ、奴らは“火”で過去を焼いた。なら、こっちは“記憶”で焼け跡を辿るしかない」


尾崎の視線は、黒く煤けた壁の先に向けられていた。


「石岡が遺した疑念……ようやく火の輪郭が見えてきた」


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