第9話 無念を晴らす為に
「……先に戻れ、水野」
「えっ、でも…」
「いいから、たまには1人でゆっくりしたいんだよ」
尾崎の言葉に、水野は一瞬ためらったが、深く頷いて静かに現場を後にする。彼の足音が遠ざかると、あたりは再び静寂に包まれた。風が吹き、焼け残った鉄骨が微かにきしむ。
尾崎はその場に立ち尽くし、黒く煤けた地面を見下ろす。
「何を……消したかった?」
低く、誰に問うでもなく呟く。
この工場は数年前に閉鎖され、ほとんどの設備がすでに撤去されていた。だが、なぜ今、ここを――
「消すべき“人”じゃなかった。これは、“記録”を焼いた火だ」
尾崎の脳裏に、ふと過去の一枚の紙が浮かぶ。石岡が7年前、秘密裏に追っていた放火事件。その中で“未解明の財務記録が残っていた元施設”があった。帳簿も書類も、都の保管期限ギリギリで、まだこの工場に封鎖保存されていたはず――
「それを……焼いたのか」
証拠隠滅。それも、公文書ではなく“記憶にしか残らない私的な資料”の焼却。公安に属する者でなければ知り得ない情報。そしてその火が、7年前と“同じ癖”を持つ――
「なぜ今、また火を点けた?」
答えはすぐには出ない。尾崎は空を仰ぎ、月を見上げる。
「7年、沈黙していた奴が……なぜ動いた」
しばしの沈黙。だが尾崎の中で、何かがゆっくりと繋がり始める。
「……俺たちが詐欺事件を追い始めた時期と……重なってる」
あの詐欺事件の裏で動いていた金の流れ。尾崎が宮島と再び接触を持ち始めた直後の放火。
「……動いたのは、“再び見られること”を恐れたからだ」
“火を点けた理由”ではない。“火を点けざるを得なかった理由”。
誰かが、再び証拠に手が届くことを恐れた。そして、その恐怖に突き動かされるように、再び火を放った。
尾崎の目が鋭くなる。
「まだ“何か”が残ってる。あの日、焼き尽くしきれなかった何かが――」
風に舞う灰の中で、焼け残った何かを探すように、彼は一歩ずつ、黒焦げた床を踏みしめて歩き始めた。
暗闇に目が慣れた尾崎は、瓦礫の中にひときわ焦げた鉄材の影を見つけ、膝をついた。焼け爛れた配線の中に、不自然に光を反射する“何か”があった。
「……これは――」
尾崎はそっと手袋越しに拾い上げる。それは、半分溶けかけた金属製のUSBキーだった。表面には、うっすらと印字されたラベルの焼け残り。
《I.M.》
「……旋」
燃えきらず、焼け跡に沈んでいた記録媒体。その存在に、尾崎の脳内にあの病院の白い廊下がフラッシュバックのように浮かぶ。
石岡が、最後まで誰にも見せなかった証拠。
この施設が封鎖される前に、石岡はこのUSBを密かに残していたのだ。
指先で、黒く煤けたUSBを軽く撫でる。
「でも、なぜ届けなかった? なぜ警察に提出せず、自分で隠した?」
少し考えてから、尾崎の目が鋭くなる。
「……違うな。届けられなかった、じゃない。“届けなかった”んだ。お前の判断で。つまり、どこかに“信用できない相手”がいたってことだ」
しばらく黙り込んでいた尾崎が、ゆっくりと顔を上げる。月が、黒い工場の骨組みを照らしていた。
「情報を持っていたのは、お前だけだった。証拠を掴んだのも、お前だけだった。だけど、それを明かしたら、自分ごと“消される”と感じた。……だから、身を守るためにも、そして真実を繋ぐためにも、この場所に隠した。あのとき、封鎖予定だったこの工場群に」
尾崎の脳裏に浮かんだのは、7年前の悪夢の前日だった。何も言わず、ただ尾崎にあの言葉だけを残した日。
「“もしものときは、俺の代わりに追ってくれ”――あれは頼みでも、遺言でもなかった。お前なりの、未来への布石だったんだな」
足元の地面を見下ろす。黒く焼け焦げた床、瓦礫と化した壁、溶けたパイプ。
「……でも、誰かがこれを見つけた。お前がここに残した“何か”を。でなきゃ、この場所に再び火をつける理由なんて、他にない」
尾崎はUSBをポケットにしまい、顔を上げる。
「なぜ“今”だったのか――7年という空白。それは偶然じゃない」
鋭く思考が走る。
「犯人は、情報の存在を最近になって知った。……あるいは、自分が関わっていた過去の“何か”が動き出すのを恐れた。そして、“証拠がある”ことに気づいた」
尾崎の目が、空気の奥を睨むように細められる。
「7年、何もなかったのは、その“証拠”が見つかっていなかったから。けど、何らかのきっかけでUSBのことを知り、慌てて火を放った――そう考えるのが自然だ」
また数歩、瓦礫の中を歩く。その先に立ち止まると、拳を軽く握った。
「……つまり、この火は“証拠隠滅”のための火。これは放火じゃない。殺人の“後始末”だ。旋を殺した、あのときの真犯人が、今また――動き出した」
言葉にした瞬間、胸の奥に確信めいたものが走った。
尾崎はポケットからスマホを取り出し、開いたままのメールを見下ろす。そこには、一ノ瀬が送ってきた公安の出費リストが並んでいた。
「冬季の灯油……公安が買っていた。しかも“二缶”分。普通は一缶で足りるはず、そして公安は買う必要が無い」
まぶたを閉じて、また石岡の顔を思い出す。
「お前は……ここにヒントを残してた。俺にしか届かないように。俺にしか、分からないように」
その声に、夜の空気が僅かに揺れたように感じた。
「旋。全部繋げてやるよ。お前の残した“声”は、まだ消えてねえ」
尾崎は静かに踵を返し、焼け焦げた工場跡を後にした。
夜の闇の中、彼の背中がひとつ、深く重い真実を背負って歩いていった。
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