第2章 死人が生き返るのもおかしい
第6話 そんな婚約者もいたっけか
静蓮が連れてこられたのは丁寧に片付けられた部屋だった。だが書棚が目一杯に空間を侵食しており、文机にも紙がぴしっと整って積まれている。宦官が特に気兼ねなく入ったことから、彼の部屋であるらしい。
どうやら目の前の宦官は執務室を持てる程度の重職にあるらしい。
静蓮がその部屋を見回していると、宦官は静蓮に平伏した。
「……その」
「
内侍省とは皇帝に仕え後宮を管理するところで、宦官が所属している。目の前の宦官は内侍省のなかでも高官なのだろう。
そして口ぶりから察するに、
信用しても良いものだろうか。静蓮を陥れる罠ではあるまいか。
澄瑜は帝位への野望をひた隠しにしながら、静蓮の婚約者として振る舞い続けた。いいかえれば、腹芸ができる男である。
「韓策殿、お手をお上げください」
警戒しながら、静蓮はそういった。
「私はもうあなたに頭を下げられる身分の者ではありませんから」
声を低く抑えて韓策のほうへ膝をつく。だが、謹厳実直を絵に描いたような真面目そうな宦官は平伏したままだ。
「公主様は公主様でございます。春蓉公主様」
困ってしまった。韓策はきいてきた。
「公主様はいままでどこにおいででした? 主上が探しておいででした」
「主上……が」
澄瑜が静蓮に何の用だろう。もう婚約者同士ではなくなった。皇帝として新時代を築く澄瑜にとって静蓮はおそらく旧時代の遺物に過ぎない。そんな婚約者もいたっけか、というような。だから静蓮も彼を追わない。
「……言えません」
静蓮は心の鎧を厚くした。探し出して殺す気ではあるまいか。早くこの世からいなくなってしまいたいが、妹の琴瑶と紫葵が、特に紫葵が幸せになるまでは死ねない。
冷たい沈黙が降りた。韓策は静蓮を冷たく光る刃のような鋭い瞳で見つめた。
「こちらとしては公主様をお守りしたいのですが」
「……言えません」
それに、もし澄瑜に近い韓策に、自分が
少し韓策はしびれを切らしたようだった。
「申し上げられないのですか」
「……」
静蓮はうつむいた。
すぐに冷ややかな声が響く。
「では、私の推理したことを申し上げましょう。公主様は何らかの事情で、自害をしたと偽って皇太后の華紹陛下の下女をなされている」
静蓮はうつむいた。韓策は続ける。
「なぜ後宮にとどまり下女をなさっているのですか?」
「それは……」
韓策は厳しい冬のような声で、静蓮に迫った。
「……主上を弑し奉るために後宮にいらっしゃるのでは? 主上はあなたさまの父上のものを奪われたと見ることもできます。仇討ちをなさるために死を偽り下女として潜伏しておられるのでは?」
「……な!」
意外な疑いをかけられて、静蓮は言葉を失った。たしかに自分を裏切ったに等しい澄瑜を信用することは難しいが、彼を殺そうなどとは決して思えない。思いたくなかった。それに第一、そんなことをしたら妹たちの身が危うい。
「……違います、私は」
なんと言い訳すればいいだろう、どうすればこの場を逃れられるのか、と頭のすべてを使って考える。この平伏しているのに恐ろしい宦官と華紹、どちらに責めさいなまれているほうがましだろう、と思ってしまう。
「そうとしか思えません。でなければ、すべて真実をお話しください」
「……」
なんと話していいものかわからない。
「では、よろしいのですね。主上に対する謀反の疑いであなたがた三姉妹に嫌疑をかけてもよろしいか。
紫葵、と静蓮は顔色を変える。
「紫葵は荀家に嫁いでいるのですか?」
静蓮が公主だったとき、荀家は澄瑜の沈家と並んで名門の家だった。澄瑜の治世下でもその名門の地位は保たれているという。
韓策は顔を上げる。
「ええ。穏やかに過ごされておいでです。その御方がどうなってもよろしいと?」
「い、いやです! いや」
首を大きく振りながらうずくまった。
すると、するりという衣擦れの音がした。振り向けばしどけない格好をした澄瑜だった。
「韓策、もう良い」
「ですが」
「言いたくないこともあるだろう。無理に話させるのは」
澄瑜がそう言いながら静蓮の方へ寄ってきて、その肩を引き寄せようとする。だが静蓮はすぐに澄瑜に平伏した。
「私は殺してくれて構いません。でも、紫葵と
そうしているうちに、空腹と寒気が蘇ってきて、目眩がしてきて、その場にうずくまった。
韓策は眉をひそめた。澄瑜は哀しげな顔をした。
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