第5話 世界がその瞬間、色を帯びた

 日がどんどん傾いていくなか、静蓮は急いでもといた桂葉宮けいようきゅう翠楊宮すいようきゅうのあいだの廊下へ戻った。


 華紹かしょうは自分が掃除を怠っていると知ったらひどく怒り、またもや殴ってくるだろう。どうして彼女に憎まれているかはわからないが、少しでも隙を見せたら責めさいなまれることはわかっている。


 自分に親切にしてくれたはずの澄瑜ちょうゆが恨めしく思えてくる。どうして静蓮の前に現れたのだろう。


 彼は静蓮を捨てて新しい国を作った。そのうえで琴瑶きんようを迎えるという。書類の上では死んでしまった婚約者のことなど、捨て置いてもいいのに。



 廊下はきれいになっていた。


「……どういうこと」


 他の人間が掃除を済ませたということだろうか。


 すると、さらさらという裳裾の衣擦れの音が聞こえた。この音だけで、華紹が来たとわかってしまう。静蓮はそれだけの恐怖を味わってきた。


「……あなたが掃除を放りだしてどこかへ行ってしまうから、別のものが掃除していたようですよ」

「申し訳ございません」

「養心室に主上が御自ら傷だらけの下女をお運びになったそうです」

「……」


 静蓮は背筋が凍りかけた。


「あなた、その──」と華紹のなよやかな指が静蓮の額を指す。額には包帯が巻かれていた。


「包帯はどうしたのですか?」

「……」


 言葉が出ない。何か言ってはいけない気がする。


 華紹はその瞬間、この世で最も憎らしいものを見る目で静蓮を見た。


 ぴしゃり、という音がして静蓮の頬を何かがかすめた。ひどく焼けたような感覚がある。つい、とまた頬に血が伝う。


 振り向けば華紹の持っていた扇が、床に転がっていた。


「もう、……顔も見たくない」

「申し訳ございません……」


 静蓮はただ謝るしかない。


「今夜は桂葉宮に足を踏み入れるでない! そこで野垂れ死んでしまえ!」


 華紹は叫んだ。裳裾を翻して去っていく。


 それを、影で見ていた者がいたのに、静蓮は気づかなかった。



 濃紺の空に星が点々と散らばっている。静蓮は寒さと空腹を覚えながら、廊下の柱に背をもたせかけていた。目がくるくると回り、血の気も引いてきて、このまま死んでしまいそうな気がする。


 すると、ゆったりとした足音が聞こえた。夜闇と見分けのつかない濃紺の官服を着た白皙の人物が、こちらに向かってくる。


 無理やり身体を動かして平伏する。


 だが、その人物が膝をついてきた。


「どうぞ」


 笹の葉に包んだ、おそらくちまきと思われるものをわたしてきた。


「召し上がってください」

「……?」


 声に聞き覚えがある。ああ、と気づいた。養心室で澄瑜を呼んでいた宦官の声だ。


「毒など入っておりません。召し上がってください。そのかわり、お伺いしたいことが」


 手に取ろうとしてすぐに首を横に振った。


「いただけません。主人に叱られます」


 すると、宦官はため息をついた。


「……先帝の第一皇女春蓉公主しゅんようこうしゅ。ご存知ですね?」


 ぎくり、と脳内すべてが危険を告げ知らせる。また、一生懸命首を横に振る。


「わ、私はそんな立派な人じゃありません」


 わざと口調も崩す。


「そんな立派な人じゃありません、ですか。私は単に春蓉公主を知っているかお伺いしただけで、あなたが春蓉公主かどうかは尋ねていませんが」


 息を引いた。まずい。


「それは、その」


 静蓮は声を裏返した。その様子を見て宦官は言う。


「では、あなたが一番いま知りたい情報をお教えする代わりに、お話を伺いたいのですが」

「し、知りたい情報……?」


 そんなものはない。強いて言えば華紹の怒りをどうしたら避けられるかくらいだ。


「先帝の第三皇女、秋麗公主しゅうれいこうしゅのこと。あなたさまの末妹の、紫葵しき様について」


 世界がその瞬間、色を帯びた。紫葵。誰よりも大切な妹。


 静蓮は宦官にすがった。


「紫葵のことを教えて下さい。いまあの子はどうしているのですか?」

「では、私とともにいらして、私のご質問にお応えください。春蓉公主様」


 宦官はその冷たげな顔に笑みを浮かべる。

 静蓮は自分を叱咤してたちあがり、宦官に従った。

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