第4話 死んだはずの婚約者

 死んだはずの婚約者・静蓮せいれんが目の前にいた。彼女は澄瑜ちょうゆを見て、呆然とした顔をしていた。


「さぞかしお恨みのことだろう」


 澄瑜がそういうと、静蓮は目をこすりながら、ふらふらとその場を立ち去ろうとした。


「お待ち下さい! 静蓮様!」


 幽霊でもいい、話をさせてくれと、澄瑜は静蓮の腕を掴んで引いた。その勢いで彼女はよろめき、彼の胸のなかに倒れ込む。


 幽霊にしてはまだ温かかった。身体を掴むことができる。ひどく軽いが。しかし、ひどく血まみれだ。


「どういう……ことだ」


 澄瑜が腕の中で気を失っている静蓮を覗き込むと、韓策かんさくが首を傾げる。


「どこぞの下女が、主人から虐げられていたのでしょうか。可哀想に。手当させましょう」

「いや、下女ではないはずだ」

「は?」


「このお方は」と澄瑜は静蓮を横抱きにした。


「先の皇帝の第一皇女、春蓉しゅんよう公主こうしゅ様だからだ」

「は、はい?」


 いつも冷静な韓策が少し声を裏返す。


「春蓉公主様はご薨去あそばされたはずです」

「そうだ。春蓉公主様はお亡くなりあそばされた。だが、ここまで公主様にそっくりな女性などいるだろうか」

「他人の空似ということも」

「そうだとも思うが……余が公主様の、静蓮様のお姿を見間違えるはずがない」


 韓策は怪しげに主人である澄瑜を見た。


「わかりました。医女に診させましょう。このお方が目覚めればはっきりするでしょう」

「そうだな。下女であれば下女であったでかまわん。顔が気に入った。口説こう」

「……かしこまりました」


 澄瑜の言葉に、韓策は端正に一礼した。


 ***


 目の前に失ったはずの婚約者、澄瑜がいた気がする。静蓮はただただ呆然とした。何も考えることができなかった。幻覚だろうと思い、目をこすって立ち去ることにした。


 それから先の記憶が一切ない。



 目が覚めた。


 ふかふかとした寝台は、薬の匂いがする。あたりを見回すと、薬の棚や医療器具、清められた布が見え、鍼灸の道具もある。もう日が傾いているようだ。


「……ここ」


 後宮の医事を担当する養心室ようしんしつだ。宗室の人間や高級女官の治療のために使われる部屋。しかも、ぼろぼろのお仕着せではなく、清潔な寝間着を着せられていた。


「お気がつかれましたか」


 医女がせせこましく働きながら、静蓮の顔を覗きこんできた。


「もう安心でございますよ。お薬をお飲みください」


 全身が痛むなか、体を起こす。渡されたのは欠けていないお椀だった。本当に久しぶりに手に取る、何も欠けていない食器だ。


「ありがとうございます」


 夢だったんだ、と静蓮は思った。変な夢を見ていたのだ。国号が変わったり、婚約者の澄瑜が皇帝になったり……。下女に落とされて優しい叔母の華紹かしょうから常々虐げられていたり……。


(めまいでも起こしたんだわ。それでこの養心室にいる)


 医女は薬を品良く飲む静蓮を品定めするように見た。何をジロジロみているのだろうと、静蓮は少しだけ不審に感じた。


「すこし落ち着かれましたらにお礼を。お倒れになっていたところを助けてくださったのですから」


 医女の言葉に、静蓮は目をまたたかせる。


に? 父上がどうして私を? とってもお忙しい方なのに」


 その言葉に、医女はあっけにとられたような表情をする。


 その顔のまま、「ひい、ひい!」と腰が抜けたように震えて悲鳴をあげ、医女は部屋から出て行く。


 入れ替わるように、澄瑜が姿を見せた。いつものように特別な許可をもらって静蓮に会いにきてくれたのだろうか。だとしたらこんな姿を見せてしまって恥ずかしい。


 遊び人の彼にしては珍しくかっちりと着物を着込んでいるが、何があったのだろう。


 笑顔を見せて、彼のほうへ腕を伸ばす。


「澄瑜殿。お久しぶり。なんだかめまいでも起こしてしまったみたい」


 いつもであれば、何か返事をしてくれるものだが、澄瑜は何も返事をしなかった。ただただ顔を青ざめさせ、何かに取り憑かれたかのように真剣に静蓮を見てくる。


 彼の手が静蓮の頬に伸びた。静蓮はその手を取って頬に当てる。


「どうしたの?」


 無言で澄瑜が静蓮を抱きしめた。しっかりと。

 静蓮は首を傾げながらも抱き返す。彼のがっしりした肩に顔を埋めた。


 しばらくそうしていたが、誰かの咳払いが聞こえた。


 澄瑜が振り向く。


「韓策か」

「はい。主上、お時間でございます」

「そうか」

「主上? 澄瑜殿が?」


 静蓮は澄瑜をまっすぐ見た。


 夢は夢でなかったことを悟る。

 父が寵臣に殺されたことも。国号が変わったことも。澄瑜が即位したことも。下女に落とされたことも。華紹と琴瑶きんように虐げられていることも。


 こんなところにいてはいけない。下女がこんな高級な寝台を使わせてもらい、手当てしてもらい、薬を飲ませてもらい、皇帝自らの言葉をいただくなどあってはならない。


 静蓮は急いで澄瑜と寝台から離れた。うっかり尻餅をついてしまったが、すぐに起き上がる。


 寝台の足元に畳まれてあった自分のお仕着せを手に取る。


「静蓮様」

「も、申し訳ございません! お助け頂き、ありがたき幸せでございます!」


 澄瑜が静蓮の腕を取ろうとするが、急いでその場を逃げ去った。

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