第7話 読書はお好きですか?

 ***


 窓から降り注ぐ月明かりがその寝室を照らしていた。後宮の一角の碧影宮へきえいきゅうに、静蓮せいれんは寝かされている。


 彼女は静かな寝息を立てていた。澄瑜ちょうゆはひどく安心する。

 地味ながらも結っていた彼女の黒髪が解かれていた。あまりに長く豊かだったので寝台から零れ落ちんばかりだった。


 その髪を掻き分け、白くほっそりした頬をなぞる。


「静蓮様……」


 愛しげにそっと、額に口付けを落とそうとした。


 だが、唇を離す。


 世間や周囲が認めていた婚約者同士だった頃は、戯れに抱きしめあったり唇を吸ったりするのは当然のことだった。しかし、どうやら静蓮は華紹かしょうの下女に落とされている様子。

 婚約者ではなくなった。

 しかも静蓮の父のものだった玉座を奪ったのだ。

 静蓮は今の自分をどう思っているのだろう。ためらいが心を覆う。

 

 するするという衣擦れの音がしたので振り向けば、韓策が深々と礼をしていた。


「……事情はわかったか?」

「はい。多少は。私の見たところによりますと、皇太后陛下は厳しく春蓉しゅんよう公主様を責め立てておりました。少し皇太后陛下のお住まいになる桂葉けいよう宮のものに話を聞きましたが、公主様は静々と名付けられ、皇太后陛下にひどく疎まれている様子だということです。静々の身元に関しては貧しい庶民の娘としか聞いていないと」

「なぜ母上はそこまで公主様をおいとい遊ばされるのか」

「そこまでの理由は聞き取れませんでした。とりあえず皇太后陛下が連れてきて、日常の鬱憤ばらしを兼ねて責め苛んでいたのだそうです」


 澄瑜の表情が凍りついた。母には大きな恩がある。自分が登極する際に随分と手を貸してくれた。しかし、その母が静蓮を虐げている。


「……だが、母上はそういうお方かもしれないな」


 華紹は先の王朝のようの皇女。亡き先帝の妹だった。冬霞とうか長公主ちょうこうしゅと呼ばれ、名門貴族の沈家に嫁いだが、無能な兄より自分のほうが能力があると思い込み、夫や息子に玉座を奪うよう焚きつけてきた。無能と蔑んできた兄の娘を虐げてもおかしくない。


「考えねばな」


 澄瑜はこめかみを押さえた。母から静蓮を引き離さなければ。

 韓策が「はい」と返事する。


「しかし、公主だと身分を公にするのも波乱を招きましょう。春蓉公主様が下女として侮られている状況を解消すれば良いのでは?」

「そうだな。死人が生き返るのもおかしい」

「私に考えがございます。ですが、一つ前提を確認しておかなければなりません。春蓉公主様は、読書はお好きですか?」

「……好きだ」


 静蓮は読書好きで、部屋は常に本で溢れかえっていた。学者から教えを請うほどだった。


 ***


 その日の朝早く、韓策はある場所へ向かった。竹林の中にある閑静な建物であった。


 蔵書閣。皇帝や后妃、女官たちに本を貸し出したり、後宮内の記録をつけておく場所だ。


 韓策はその建物の中に入ると、本棚が鬱蒼とした森林のように並んでいる。


「女史の孫賀そんが殿はおられますか?」


 無言だ。何も返答がない。苛ついたように少しだけため息をつく。

 そして、大声を出した。


「孫賀殿! 女史の孫賀殿はおられますか!」


 しん、と静まり返っている。誰からも返答はない。


「孫賀殿! 月餅がありますよ」


 するとすぐに書庫の向こうから五十過ぎの女が出てきた。


「さわがしいわね? 何。蔵書閣で大声は厳禁!」


 韓策はいらいらした。蔵書閣のヌシである女史の孫賀は変わり者で、甘いお菓子を出さなければ絶対顔を見せない。



 蔵書閣の休憩室。

 青茶を凝った趣味の良い茶器に入れ、韓策が持ってきた月餅を食べる孫賀は、首を傾げた。


「わたくしに何か頼みが?」


 孫賀の低いが甘やかな声が響く。


「ええ。蔵書閣が人手不足だと伺いました」

「おやまあ、内侍の韓策殿に心配していただけるなんて大変うれしいこと。誰か良い方を紹介してくれるってわけでもないはずよね」

「いえ、それがご紹介できるかもしれません。皇太后陛下の下女でしたが、この度、こちらに異動したく存じます。大層な読書好きだそうで。文字を書けて読めます」


 すると孫賀は静かに目を見開いた。


「下女が読書好き……? なんだか嫌な予感。面倒な人材を押し付けられそう」

「御察しの通り訳有りです」

「そう。まあいいでしょう。猫の手も借りたいところだったから」


 そうして彼女は茶器を優雅に飲む。その仕草はあでやかだった。

 孫賀自身、学にのめり込みすぎて夫に一年とたたず離縁されて後宮に来たのだから、訳有りといえば訳有りだよな、と韓策は思った。

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