第35話 決戦前夜
「マイケル、少し聞きたいことがある」
『あ、結城さん。どうしましたか? 葵さんなら今お母さんと買い物に……』
「ああ、その件じゃないんだ。むしろちょうどいい。近くに人は居ないか?」
『はい、いません』
結城は安心して、マイケルに誰にも聞かれないよう忠告した。
「なんでもいいから思い出してほしいんだ。お前が出会ったわさびの裏側について」
マイケルは唸った。特に以前話したことからの進展はない。返事が出てこないので、結城はスペインでの会話で得たヒントを使って促すことにした。
「実は俺、さっきまでスペインに行ってきたんだ」
『スペイン? 旅行でもしたくなったんですか?』
「違う、冬だぞ。観光客もほぼいなかったしな。例のわさびについてだ」
『僕でも分かりますよ、スペインでわさびって食べないですよね?』
「黙って聞け。闇のマーケットのアカウントを辿ったらそこに行きついたんだよ。ところで、マウリっていう人に心当たりは無いか?」
『マウリ? 聞いたことないですね』
「そうか、京極の偽名だと思ったんだけどな」
『あ、でもちょっと待ってください……』
マイケルは唸り始めた。何かを思い出そうとしている。5分ほど待って、マイケルが突然大きな声を出した!
『あ、分かりました!!』
「うわっ! びっくりした、急に大きな声出すな!」
『すいません!!』
マイケルは大きな声で謝る。しかし大声になるということはそれほど重要なことを思い出したのだろう。結城は生唾を飲み込んでマイケルの発言を心待ちにする。
『相手のボスの名前です。スペイン人の』
「え」
『マウリコ・アスパス・なんたらって人だったと思います』
「会ったことあるのか?」
『いえ。ただ、裕次郎さんが会ったことあって、スペイン人だって言ってました』
マイケルの度肝を抜く発言に結城は目が飛び出そうになる。
「なんでそんな大事なこと早く言わなかったんだ!?」
『あ、うっかり忘れてました』
結城は椅子から崩れ落ちそうになる。確かにマイケルが3つまでしか覚えられないのは知っていたので、記憶に残っていたものを掘り返せただけでもかなりの収穫だろう。しかし、結城にはどうしても気になる点があった。
「お前って覚えられるの3つまでって言ってたよな?」
『はい、そうです』
「前回報告を受けたのって、車に乗ってきた黒服の男についてと山瀬裕次郎の過去の2つだけだったじゃないか!」
特にほかに報告は受けていなかった。だからこそ、結城は京極を視野に入れて追及していたのだ。
『いや、確かにそうだったんですけど、その前にわさびの育て方教わってたんで……絶対に覚えなきゃって思って、つい』
結城は言葉も出なかった。大きなため息をつく。この情報さえ知っていればもっと早く状況を理解できたのに、と結城は落ち込む。
京極の特徴とあまりに似ていたため、結城は関係があるのでは、同一人物なのではと勝手に考察していた。しかしそれは全くの勘違いだった。思い返せば確かにシノも、京極の可能性があるとは一言も言っていなかった。
(どうせならスペインってことまで調べてくれればよかったのに)
と結城はシノに対して、心の中でぼやいた。
(《アディオス、耀》)
(ん?)
結城の頭にシノの発言が蘇る。アディオス。スペインの挨拶で、あばよという意味だ。結城が話を聞きに行って殺された男も使っていた。
(まさか……あいつ、また暗号みたいに伝えようとしたのか!)
怒りよりも喜びが上回った。シノは裏切っていない、その判断が出来たことがなにより結城に希望をもたらした。
それならば、京極サイドに付いたことにも理由があるはず。もう3か月以上経っているため、あっちも何かしらの進展があるころだろう。
「ありがとな、マイケル! 助かった!」
結城は勢いよく電話を切って、京極のデータを再度調べ始めた。そのタイピングはとても軽やかだった。
「急にハイテンションになってどうしたんだろ、あの人」
唐突に電話を切られたマイケルだけが、一人首をかしげていた。
結城はトリニティ・コレクトへ戻り、胸ポケットを確認した。そこには確かに、シノからのUSBメモリが入っていた。
結城がシノの胸ぐらをつかんでゆすったとき、何かが胸ポケットにストンと入った。不思議なほど、シノの手は一度も動いていなかった。
京極が警戒するなら、まず注目するのはその「手」だ。だが、これに気づくことはまずない。あの一瞬で結城の行動を読んだ上で、確実に胸ポケットへ滑り込ませた。それだけでシノの洞察力が並外れていることが分かる。
結城はすぐにパソコンでシノから受け取ったデータを確認した。
「これは……」
そこにあったのは、京極コーポレーションの裏の実態を暴く詳細な情報だった。
しかも一件ではない。クラウンとの関係など既知の内容から、京極の息子・陽の不祥事に至るまで、極めて緻密に整理されたデータが並んでいた。
「さすがアイツだな」
感心した結城は、すぐにすべてのデータを頭に叩き込み、パソコンごと破壊した。余計な痕跡を残すつもりはなかった。社内に京極のスパイが潜んでいない保証はない。証拠は一つでいいと、結城は判断した。
これがおそらく、最後の希望。
(シノがくれたチャンス、無駄にはしない)
結城はネクタイを締め直し、静かに立ち上がった。
同じころ、北関東のとある山奥では——
「葵、どうしたの?」
母の問いかけに、葵はどこか上の空で答えた。
「んー……ちょっと、失くし物しちゃって」
「まったく、あんたは昔からおっちょこちょいなんだから」
母の言葉が胸に刺さる。たしかにそうだった。でも、今回は違う。
葵が失くしたのは、結城からもらったイヤリングの片方だった。それは何より大切な宝物だった。失くしたことに、ただならぬ胸騒ぎがした。
(絶対、見つけなきゃ……)
葵は部屋中をひっくり返す勢いで、探し続けた。
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