第34話 スペインに導かれて

 結城は1人で京極コーポレーションへ向かっていた。


 2月の雨は、まるで無数の槍が空から突き刺さるように、結城の体温と覚悟を試してくる。しかし彼の心は燃えていた。


 正面玄関を堂々と通り抜け、周囲を見渡す。ネットやツテを辿って入手した情報では、ちょうどこのタイミングで京極が会社を出るはずだった。


 正面玄関から出る場合も裏口から出る場合も、どちらにせよ1階を通らなければいけない構造になっているため必ず姿を現す。結城はそれに賭けていた。


 結城はなるべく目立たないように張り、京極が下りてくるのを待った。3分後、京極とその側近、そしてシノが下りてきた。


(京極のことだ、裏切ったとはいえシノへの警戒はまだ解いていないだろう)


 能力は高いがまだ油断ならない人間。京極の性格からして、そういう人間を自分の目が届く場所に置くだろうという結城の読みは完全に当たった。


 結城は呼吸を整えて、コートの内ポケットを軽く叩いてから走り出す。


 あまりに急な出来事に誰もが対応しきれなかった。結城はシノの前で足を止め、胸ぐらに掴みかかった。側近が慌てて止めに入るが、京極が制止した。


「シノ!……どういうことだよ。裏切ったって、本当なのか?」


 結城は感情を爆発させる。それとは正反対に、シノは冷徹に答えた。


「メッセージも残しただろ。僕は京極コーポレーションで働くことにしたんだ」

「ふざけんな!」


 シノの目は冷徹だった。感情のない、まるで深海魚のような目。京極と全く同じ圧力を結城にかけた。


「少し、いいかな」


 2人の軋轢を切り裂いたのは、京極だった。それと同時に、2人の側近が結城をシノから引きはがす。


「結城耀君。いや、耀と呼ぶべきかな。あのパーティーの後、君の事は詳しく調べさせてもらった。まさか家にいたとはね」


(俺のこと、名前でなんか一度も呼んだこと無かっただろ)


 京極の発言に虫唾が走るが、結城はただ黙って京極を睨んだ。


「まぁまぁ、そんな顔をするな」


 京極は笑いながら言う。しかしその瞳の奥は一切の光を放っていなかった。


「私も人間だ、君には同情しているんだよ。家に裏切られ、挙句の果てには友にも裏切られ」

「何が言いたいんです?」


 京極は一呼吸置いた後、ある言葉を口にした。


「この件から今すぐ身を引けば、何もなかったことにしてあげよう。お咎めなしということだ」

「僕が頼んだんだよ、結城には手を出さないで欲しいってね。感動しただろ、この前の映像ではそれは言わなかったからね」


 シノは薄く口角を上げ、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「……分かったよ」


 結城は側近2人の手を振り払い、傘もささずに会社を出た。冷たい雨の中、打ちひしがれて結城はとぼとぼ歩いて行った。


 しかしその口元には笑みが浮かんでいた。ワイヤレスイヤホンを耳に付ける。


《……ごにょごにょ……》


 音が小さいので音量を上げる。


《やはり来たか、まぁ今の彼は私の敵ではない》

《油断は禁物ですよ、僕はあいつの性格を知ってる。まだあきらめない可能性はあるでしょう》

《確かにそうだな、クラウンとの関係は暫く続けておくか》


 調子に乗る京極とそれをなだめるシノの会話が聞こえてくる。暫く話を聞いていると、何かゴソゴソという大きな音がイヤホンから聞こえてくる。


《やっぱり……ここにあったか》

《どうした?》


 京極がシノに尋ねる。シノは襟の裏側から、小さな機械を取り出した。


《盗聴器ですよ。彼なら仕掛けてくると思っていた》


 シノは無情にも盗聴器を粉々に砕く。ブツッという音とともに結城のイヤホンには音が入らなくなった。


「なるほど……油断ならないね、あの結城という人物は」

「微かな希望は潰さないと雑草みたいにまた生えてきますからね」


 シノの発言に京極は高らかに笑う。


「はっはっは! やはり君は残虐だな。仲間にはふさわしい」

「あなたに言われたくないですけどね」


 2人は軽口をたたき合い、次の仕事へ向かった。


 雨に打たれる中、結城はそっとイヤホンを外す。下を向いてうつむく。


「……これでいい」


 雨の中で小さくニッと笑い、結城は前を向いて走り出した。戦いは、まだ終わっていない。



 結城は3か月かけて、なんとかわさびを売っている組織の全貌を知ることができた。


(俺はずっと……勘違いをしていたのか?)


 結城が闇のマーケットで見つけたアカウントをたどっていくと、スペインにたどり着いた。


(なんでスペインなんだ?)


 結城は首をかしげる。スペインとわさびがつながらない。売れたわさびの流通を調べてみても、スペインにたどり着いていた。


 マイケルが接触した黒い車の男に話を聞くことも考えたが、あまりに裕次郎たちへのリスクが高い。結城はアカウントの持ち主にコンタクトを取り、賄賂を条件にスペインに会いに行くことにした。


 日本にいても分からない。それが結城の直感だった。


 2日後、結城はスペインに降り立っていた。すれ違う人々からは香水の匂いがする。スペインに来たという感覚を肌になじませながら、結城は空港を出た。


 街に入ると、東京と違って高いビルがほとんどないことに改めて驚く。周囲を見渡すと様々な料理屋が競うように並んでいた。どのお店からも美味しそうな匂いが漂っている。


 結城も好物のサルスエラを食べたいところだったが、今回は時間が無い。大通りを逸れて、結城は網目のように張っている裏の路地を迷うことなく進んだ。


「Ya voy.」

――来たか。


 奥の掃き溜めになったような場所に、その男はいた。結城は金を渡して、気になっていたことを尋ねる。


「¿Están seguros de que son ustedes los que envían este wasabi a España?」

――このわさびをスペインに流してるのは、お前たちで間違いないんだな?


 男は丁寧に金を数え上げた後、こくりと頷く。スペインではわさびという植物はメジャーではないため、一度国に入れてしまえばバレにくいとのことだった。


「しかし、あまりに馴染みが無いと逆に怪しまれないか?」


 結城がそう尋ねると、男は結城の後ろを指さした。結城が振り向くと、そこには寿司屋があった。


「スペインには日本食の店が多い。寿司はその筆頭だ。日本人の寿司にはわさびを使うんだろ?」


 あまりわさびを使わないスペインの人達も、寿司屋などでその見た目や匂いは知っている。そのため現地の人々に限っては馴染みがあるそうだ。


 スペインでなぜわさびを配る作戦を思いついたのかは理解できた。少し隙があるこの人間からなるべく情報を引っ張り出しておきたい。


「Ya estás satisfecho. Adiós.」

――もう満足だろ。じゃあな。


 相手の男はイライラしている。早く帰りたそうにしているのを遮って、結城は更に気になっていることを聞く。


「京極という人間を知っているか?」

「きょう……なんだって?」


 男はポカンと頭をかしげている。どうやらピンと来ていない様子だ。


「聞き方を変えようか、お前たちのボスの名前は?」

「言う訳ないだろ」


 男は即答する。その目には恐怖が映って見えた。しかし結城は、男がさっき受け取った金をパラパラと触っているのを見逃さなかった。


「じゃあこれならどうかな……」


 続けざまに結城はカバンの中身を見せる。そこには7000ユーロ以上が入っていた。日本円で言えば100万円以上の価値がある。


「うーん」


 唸る相手に結城は追い打ちをかける。


「お前の安全はわがトリニティ・コレクトが保障する。それならいいだろう?」

 

 もちろんハッタリである。しかし、金に目がくらんだ羊を小屋に誘導するのはたやすいことだった。


 分かったよ、と男はカバンごと受け取った。偽札でないことを入念に確認した後、周りを警戒しながら小声で言った。


「(俺たちのボスの名前はマウリ……)」


 その瞬間、彼の背中を銃弾が撃ち抜いた。白い壁に、男の血が花のように舞った。あまりに突然の出来事だった。結城には、その一瞬がまるでスローモーションのように見えた。


 男の体が弾かれたように前へよろめき、何かを言おうとした口が開いたまま、力なく崩れ落ちる。


 次の瞬間、ダァン!という乾いた銃声が狭い路地に反響した。


「くっ──!」


 結城は本能的に身を屈め、咄嗟に脇道へと走り出す。壁を擦りながら、息を殺し何度も角を曲がった。


 心臓の鼓動が耳を打つ。まるで自分が撃たれたかのように、血が逆流するのを感じた。


 幸い、追手の気配はない。荒い呼吸を整えながら、結城はその場から離れ、空港へと向かう足を止めなかった。


 狭い路地だったため、相手に撃たれることもなく逃げることができた。行きとは異なる道を走り回って、なんとか撒くことに成功する。


 結城は命からがら空港へ向かい、直行便に飛び乗った。あの血の匂いをまだ鼻が覚えていた。

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