第27話 別れようか

「そんなことがあったんですね……」


 葵は、そっと結城の背中をさすりながら答えた。その一定のリズムに、結城は不思議な安心感を覚えていた。


 結城の背に伝わる葵のぬくもりに、心の霧が少しずつ晴れていく。


「ごめん、暗い話だったね」

「いえ、お話を聞けて良かったです」


 葵は微笑みながら首を振った。そこに偽りはなかった。


「じゃあ、耀さんの義理のお父さんは京極コーポレーションの社長さんだったんですね」

「そういえば今まで言ってなかったよね。そう、一度は父親と呼んだ人間さ」


 葵は、パーティーで結城が京極に呼び出されていたことを思い出す。


「じゃあ、あのとき……親子の話をしてたんですか?」


 結城は一瞬だけ首をかしげ、すぐに思い出したように言った。


「ああ、いや。あれは仕事の話だよ。京極は僕を他人だと思ってるからね」


 言葉は穏やかだったが、その声音にはどこか乾いた響きがあった。


「僕は、養護施設に行く前に苗字を旧姓の結城に戻した。『耀』って名前も最近は多いし、気づかなくても仕方ないよ」


 葵には信じられなかった。一度でも親になった人間が、目の前の子どもの顔を忘れるだろうか。


 確かに結城の話では、あまり父親と顔を合わせる機会は少なかったという。でも、それでも――


「自分が京極さんの子どもだったって……伝えないんですか?」

「そんなことしても意味ないよ」


 結城は、静かに首を振った。


「そうまでして、自分を一度裏切った人に、もう愛されたいなんて思わない」


 どこまでも冷静な言葉だった。けれどその奥に、誰にも触れさせたくないような、傷の深さがあった。


 葵は少ない語彙の中から必死で言葉を探した。


 でも出てきたのは、結城のためを思ったものではなく、自分の心から溢れた言葉だった。


「私は忘れませんから。一生、何があっても私は耀さんのことを覚えてます」


 葵はまっすぐ、結城の目を見て言った。結城は驚いたように瞬き、そして微笑んだ。


「ありがとう。僕も、葵さんのことを一生忘れることはないよ」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。けれどもそれは、苦しいものではなかった。温かいものだった。


 しばらくして、葵は口を開いた。


「……悔しいです」


 葵は、小さく拳を握りしめた。


「耀さんみたいに頑張った人が、どうしてそんなに傷つかなきゃいけないんですか」

「……」

「私、もっと強くなりたい。耀さんが頑張らなくてもいい場所を、一緒に作れるように」


 震える声だった。けれど、その小さな宣言は、確かな強さを宿していた。


 結城はふっと目を細めた。


「……うん」


 短く、それでも確かに頷いた。


 二人の上に、夜風が静かに吹き抜けた。河川敷の向こうには、ぼんやりと光る街の灯り。頭上には、かすかな星の瞬きがあった。


 結城はそっと、葵の頭に手を置いた。


 かつて母親にされた仕草を、今は自分が、大切な誰かに返すように。


「ありがとう、葵さん」

「はい。ずっと一緒です」


 けれど、その直後。


「でも……別れようか」


 急転直下、まるで空から突き落とされたような衝撃が葵を襲った。

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