第28話 はぐれた心
「え……?」
葵は目を見開いた。頭が真っ白になる。
「落ち着いて聞いてくれ。僕は葵さんを嫌いになったわけでも、他に女性ができたわけでもない」
結城の目は真剣だった。だけどその真剣さが、より一層葵の胸を締めつけた。「そんなの……」と言いかけた唇を、葵は必死に噛みしめた。
きっと何か伝えたいことがあるんだろう、葵はぐるぐると暴れまわる気持ちを押さえつけて、なんとか落ち着いて結城の目を見た。
「葵さん……もしかしたら、君が誘拐されたのは僕のせいかもしれないんだ」
葵は思い出す。誘拐されたあの日、葵は傷一つ負わなかった。それは偶然ではない。狙いは最初から「葵」ではなく、「葵を通しての誰か」だったのだ。結城への警告、それが相手の狙いだったのだと葵は確信する。
「トリニティ・コレクトは急成長している。恨みを買ってもおかしくない。敵はきっと、僕を狙っていたんだ」
「でも、それなら警察に相談を……!」
「無駄だよ。ああいう連中は、表には出てこない。企業としてもっと強くならなきゃ、守りきれないんだ。それこそ京極コーポレーションのようにね」
その言葉は、あまりに冷静で現実的で、そして残酷だった。葵を誘拐した犯人、2人組だったが葵にはあまり賢くなさそうに見えた。しかし使用している道具だったり、明確な痕跡を残さなかったりするところにはプロの片鱗があった。
「一度だけ、別れよう。君が安心して暮らせるようになったら、必ず迎えに行く」
「……約束ですよ?」
葵はなんとか涙で滲んだ声を絞り出す。
「うん、約束だ」
結城の手は、葵の髪に触れたまま動かない。そこから伝わってくる結城の感情に、葵は怒りで蓋をするわけにはいかなかった。
それから2人は、ベンチで一言も交わさなかった。ただ、結城の指先が名残惜しそうに葵の髪から離れたあと、夜の闇だけが澱のようにそこに残った。
帰り道、結城は葵のマンションまで送ってくれた。けれど、道中の会話は他愛ないものばかりだった。笑い声もあった。けれど、2人の心は笑っていなかった。
葵のマンションの玄関前に着く。葵は振り返った。
「……さっき、言いましたよね。『ずっと一緒にいます』って。私、あれも本気でした」
結城は何も言わなかった。葵はさっきの河原での会話を思い出していた。
(「ずっと一緒にいてくれますか?」)
それに対しても、結城は返事をしてくれなかった。
結城はただ、静かに微笑んで葵の髪をそっと撫でた。
そしてエレベーターの扉が閉まり、彼の顔が最後に見える。その姿が見えなくなった瞬間、葵は世界から音が消えたように感じた。葵はその場に崩れ落ち、呟く。
「……嘘つき」
ぽつりとこぼれた言葉が、静かな夜に吸い込まれていった。
朝が来た。窓の外から射し込む日差しは昨日と変わらず暖かくて、まるで何事もなかったかのように新しい一日を始めようとしている。
しかし葵の世界だけは、昨日から止まったままだった。毛布にくるまったまま、葵はベッドの上で小さく丸まっていた。擦り切れた心。
目は開いているけれど、心は何も見えていない。まぶたの裏では、昨夜の光景が何度も何度も繰り返されていた。
(「別れようか」)
その一言が、葵の心に杭のように打ち込まれたまま抜けない。
「どうして……」
ぽつりと零れた声も、さびれた空気に溶けて行く。
目の奥がじんわりと熱くなる。昨日泣きすぎたせいで、涙はもう出てこないと思っていたのに。
「どうして……」
声が震える。喉が痛い。でも止められない。
「私が守りたいって思いで一緒にいたいって言ったのに。私の気持ちは?」
シーツを握りしめていた手に、じわりと爪が食い込む。痛い。でもそれ以上に心は締め付けられていた。
(苦しい)
自分は、ただ守られるだけの存在じゃない、葵はそう思っていた。だからこそ、そう言ったはずだった。
けれども結城はそれすらも包み込むように、1人で決めて1人で離れていった。
(ずるい)
結城は優しすぎるから、私を傷つけたくないんだろう。葵には分っていた。でも、それが優しさなら
「そんな優しさ、いらないよ……」
葵は小さくつぶやいた。もちろん返事はない。葵は世界に自分しかいないように感じた。
それでも、時間は進んでいく。バイブレーションに気づき、スマホを取り上げる。スマホの画面には、会社からの通知がいくつも来ていた。普段ならすぐに確認するのに、今日は開く気になれなかった。
時計の針が、カチ、カチと静かに音を刻む。まるで、自分を急かすように。
「……行かなきゃ」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
明日、葵は会社を退職する。今日が最後の通勤日、行かないこともできる。なぜそんなことを思ったのか、自分でもよく分からなかった。でも、行かなきゃと思った。
ベッドから体を起こすと、足元がふらつく。けれどすぐに支え直して、ゆっくりと立ち上がる。
葵がなんとか鏡の前に立つと、腫れた目と乱れた髪の自分の姿が映っていた。情けないな、と葵は心の中で思う。
しかし、それを誰かに責められたわけではない。誰よりも葵が自身を責めていた。
「……行こう」
ぎこちなく口紅を引いて、服を着替えて、髪を整えて。
目元の赤みは隠しきれないが、それでもなんとか外に出る。それだけで、今の葵にはきっと十分だった。
ドアを開けた瞬間、じっとりとした、しかし冷たい風が葵の肌を撫でる。季節は少しずつ、冬へと向かっている。歩き出すその足取りはまだおぼつかない。
けれど、その一歩一歩が葵にとっては確かな前進だった。
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