第25話 耀と陽

「英子さん、課題が終わりました」


 結城は、几帳面に整えられた答案用紙を抱えて、そっと差し出した。声はまだ高く、あどけなさが混じっていた。英子は笑みを浮かべてそれを受け取る。


「もう、『お母さん』でいいんですよ、耀」


 そう促す声は、どこか優しく、それでいて遠慮がちだった。結城は一瞬だけ視線を泳がせたあと、小さく頷いた。けれど、口には出せなかった。たった一言が、喉の奥で重く引っかかっていた。


 英子は静かに答案に赤ペンを走らせ、すぐに○をつける。


「よくできましたね。合格です」

 

 優しい声音とともに、ぽんと結城の頭に手が置かれる。


 結城は、無意識ににっこりと微笑んだ。撫でられた温もりが、心にじんわりと染み込んでいく。


 白い天井は高く、果てしなく広がる廊下には、数えきれないほどの部屋が並んでいた。そのひとつに結城の小さな世界があった。


 小学一年生。まだ小さな背中で、結城はすでに「跡取り」としての道を歩き始めていた。この家に養子として来た日、結城は全てを理解したわけではない。


 けれど、子どもなりに空気を読むことはできた。この家には、期待という名の重い空気が充満していた。


「次は何をすればいいですか?」


 結城がまっすぐな声で尋ねると、英子はすぐに答える。


「マナーの勉強をしましょう。……あの方についていって」


 英子の隣に控えていたメイドが一礼する。


「かしこまりました」


 結城は毎日、貴族の子弟のように、立ち居振る舞いや教養を叩き込まれていった。


 この家での日々は、ただの「子ども時代」ではなかった。言葉遣い、立ち振る舞い、知識、教養。そのすべてが、将来の社長としてふさわしい人間に育てるための訓練だった。


 長年続く伝統ある名門企業。その後継者として、結城は選ばれたのだ。


 けれど、父とはほとんど顔を合わせたことがない。社長業に忙しく、家には滅多に帰らなかった。


 ただ、初めて会った日のことを結城は今でも覚えている。厳格なスーツ、鋭い眼差し、威圧するような存在感。


「よろしく」


 放たれたのは一言だけだった。しかしその短い言葉には、押しつぶされそうな重みがあった。


 幼い心は震え、結城は小学生ながらに足がすくんだことを覚えている。


 その日から結城は、自分に課せられた役割を果たすための訓練に打ち込んだ。



 この日もマナーの授業を終えたあと、結城は広すぎる浴室に向かった。マーライオンのような彫刻から湯が流れ出し、まるでホテルの大浴場のようだった。湯気に霞む薄暗い照明が、孤独を一層濃くする。


 結城はそっと湯船に身を沈める。お湯はちょうど良い温度だった。それなのに、心の芯は冷えたままだった。


 ポチャン、と静かな水音だけが響く。誰にも気づかれないように、結城は小さく息を吐いた。


 ここにはたくさんの大人がいる。メイド、執事、料理人、教師。けれど、誰も本当の意味で結城を見てはいなかった。


(……平気だ。大丈夫だ)


 孤独。それを言葉にすることすら、贅沢に思えた。


(寂しいなんて思っちゃいけない)


 何度も、何度も心に言い聞かせた。心に浮かぶ寂しさを押し込めるように、結城は水中に顔をうずめる。


 食事も生活環境も、与えられるものはすべて一流だった。何ひとつ、不足はなかった。


 それでも、結城の胸の奥にぽっかり空いた穴だけが何かを渇望していた。



 そんな結城の心を支えてくれたのは、母親の英子だった。


 勉強やマナーにおいて厳しく、時に冷たく感じることもあった。しかし、それでも彼女だけは結城を本物の息子として接してくれた。


 英子の言葉に、撫でる手に、結城は何度も救われた。その温もりに触れるたびに、この家に来てよかったと思えた。


 小学一年生から四年間、結城は文字通り完璧な後継者として育て上げられた。


「彼がいれば、次の世代も安泰だね」


 ときどき来訪する政治家や企業家たちに、そう褒められることが増えていった。結城は微笑み、深々と頭を下げる。


 褒められることに、結城の心は少しも踊らなかった。それでも心のどこかで、自分の価値を証明できたことにほのかな誇りを覚えた。


 たったそれだけのことが、結城には救いだった。


 また、英子はことあるごとにこう言っていた。


「耀、京極家の跡取りにふさわしい人間になりなさい」


 その言葉は、使命というよりはまるで呪いのように、結城の胸に刻まれていった。


(ぼくは、そうならなきゃいけない)


 小さな決意は、いつしか結城のすべてになっていく。



 しかし、状況は突然に変わった。結城が小学六年生になったころ、英子が妊娠したのだ。相手はもちろん、結城の義父であり、京極家の当主だった。さらに、産まれてくる子は男の子であることも早々に判明した。


 英子はとても喜んだ。その一方で、身重になった動きにくい体、陣痛の兆しに次第に苦しむようになっていった。いつしか、英子の目は自分自身とお腹の子どもにしか向かなくなった。結城の存在は、脇へと押しやられていった。


「あ、お母さん。それは僕が持っていきますね」


 それでも、結城は英子の負担を減らそうと必死だった。母親の苦しむ姿を見たくなかった。そして何より、たまに見せてくれる英子の微笑みが結城にとっては何より嬉しかった。


「ありがとう、耀」


 短く、それだけだった。それでも、結城はその一言のために生きていた。どんなに時間が短くても、結城の心の奥底に灯る小さな希望だった。


「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ」


 出産の知らせが届いた。英子は無事に出産を終えた。その数日後、赤子を抱いて京極家へと戻ってきた。その日は、珍しく父・京極も家にいた。いつもは不在がちだった京極も、我が子を腕に抱きながら目を細める。


「産んでくれてありがとう。私も鼻が高いよ」


 普段は感情をあらわにしない京極が、珍しく安堵したように微笑んだ。家中が祝福の空気に包まれた。京極は息子の誕生を記念して大々的なパーティーを開き、官僚や企業のトップたちが祝いに訪れた。


「待望ですね」

「本当におめでとうございます」


 祝福の声があちこちで上がる。けれど、誰ひとり結城に触れる者はいなかった。あれほど、「彼さえいれば京極家は安泰だ」と称えた人たちが。今はまるで最初から存在していなかったかのように、結城を無視した。


 皮肉にも、その赤子には「陽(はる)」という名が与えられた。燦々と輝く太陽のように。その光は、皮肉にも結城を深い闇へと追いやっていく。

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