第48話 血の鍵と、星詠みの扉
「ここが、『星詠みの間』への入り口だ。だが、この扉を開くためには、さらなる『鍵』が必要となる」
フードの「主」の言葉が、ひんやりとした広間に響く。私たちの目の前には、天井まで届くかのような巨大な石の扉が、絶対的な存在感を放ってそびえ立っていた。その表面にびっしりと刻まれた古代の紋様は、まるで生きているかのように微かな光を放ち、見る者を圧倒する。
(さらなる……鍵ですって……? いったい、これ以上、わたくしたちに何をしろと……?)
せっかく覚悟を決めたというのに、早くも心が折れそうになる。この世界の試練というものは、どうしてこうも立て続けに、そして容赦なく襲いかかってくるのだろうか。
「鍵とは……いったい何なのですか? この扉には、鍵穴らしきものも見当たりませんが……」
レオンハルト様が、警戒を解かぬまま、「主」に問いかける。彼の声には、疲労と、そして拭いきれない疑念の色が混じっていた。
「主」は、静かに首を横に振った。
「この扉は、物理的な鍵で開くものではない。これは、古の魔法によって施された『封印』そのもの。これを開くことができるのは、三つの要素が揃った時のみ……」
彼女は、ゆっくりと私の方へ視線を向けた。
「失われた『契約の書』、血脈を増幅させる『指輪』、そして……その二つを繋ぎ、古の盟約を呼び覚ますことができる、ローデルの『血』。ミレイユ=フォン=ローデル、お前自身が、最後の鍵となるのだ」
(わ、わたくし自身が……鍵……ですって!?)
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。もはや、巻き込まれた傍観者などではない。この物語の中心に、わたくしは否応なく立たされているのだ。
「さあ、お前の手で、その扉を開くのだ」
「主」に促され、私はおそるおそる、石の扉へと近づいた。扉の中央には、あの黒い革装丁の本がぴったりと収まりそうな、紋様が刻まれた窪みがある。
「この窪みに……この本を……?」
私が懐から大切にしまっていた黒い本を取り出すと、本と扉、そして私の指輪が、共鳴するかのように一斉に緑色の光を放ち始めた。
「ミレイユ司書、お待ちください!」
レオンハルト様が、悲痛な声を上げる。
「それでは、また貴女に多大な負担がかかるのでは!? 何か……何か別の方法があるはずです! 力ずくでも、この扉を……!」
彼は、そう言うと、剣を抜き放ち、扉に斬りかからんばかりの勢いだ。その無謀とも言える行動は、彼の騎士としての無力感と、私を案じる純粋な気持ちの表れなのだろう。
しかし、その剣を、氷のように冷たい手が静かに制した。カイエン隊長だった。
「……無駄だ、騎士。その扉は、お前の剣では傷一つつけられん。それに……」
彼は、私を一瞥し、そして吐き捨てるように言った。
「……世界の危機と、この女一人の『負担』とやらを天秤にかけるまでもないだろう。さっさとやれ、元悪役令嬢。それとも、ここで立ち往生して、背後から来る『影』に喰われる方がお望みか?」
(この男は、どこまでいってもこの男ですわね……!)
そのあまりにもな物言いに、腹立たしいやら、呆れるやら。だが、彼の言うことにも一理ある。ここで躊躇している時間はないのだ。
私は、レオンハルト様に「大丈夫ですわ」と力なく微笑みかけると、意を決して扉の前に立った。そして、黒い本を、その中央の窪みにそっと嵌め込む。まるで、ずっとそこにあったかのように、本は寸分の狂いもなく収まった。
「そして……どうすれば……?」
私の問いに、「主」が静かに告げる。
「お前の指輪を、本の表紙にある紋様に重ね、そして……お前の血を一滴、その指輪に捧げよ。それが、古の封印を解くための、最後の儀式だ」
「ち、血ですってぇぇぇぇ!?」
私は、思わず甲高い声を上げた。そんな、まるで怪しげな邪教の儀式のようなことを、このわたくしにしろと!? しかも、この清潔とは言い難い場所で、自らの指を傷つけるなど、衛生観念的にも、乙女の美学としても、断じて許容できるものではない!
「何を躊躇している。早くしろ」
カイエン隊長の、容赦ない催促。
「ミレイユ司書、なりません! 貴女のお体を傷つけるなど……!」
レオンハルト様の、悲痛な制止。
私の心は、再び激しく揺れる。しかし、脳裏に、あの水晶で見た、悲壮な覚悟を秘めた先祖の姿が蘇った。彼女もまた、この血をもって、何かを成し遂げようとしていたのだ。ならば……。
「……もう、どうにでもなりなさいまし!」
私は、ヤケクソ気味に叫ぶと、旅装の袖に隠していた、護身用の小さな髪飾り――その先端が、運良く(あるいは悪く)鋭く尖っていた――を手に取った。そして、ぎゅっと目を閉じ、祈るような気持ちで、自らの左手の親指の先に、その針を、ちくり、と突き立てた。
「……っ!」
小さな痛みと共に、ぷくりと血の玉が浮かび上がる。私は、震える手で、その指を、扉に嵌め込まれた本の上の、銀の指輪にそっと押し当てた。
私の血が、指輪に、そして本の紋様に触れた、その瞬間――。
ゴオォォォォォォッッ!!!
これまでとは比較にならないほどの、圧倒的な緑色の光が、本と扉からほとばしった! 強い風が吹き荒れ、壁の紋様が一斉に光の川となって扉の中心へと流れ込んでいく! まるで、永い眠りから目覚めた古代の巨人が、産声を上げているかのようだ。
「きゃあああああ!」
レオンハルト様とカイエン隊長が、咄嗟に私を庇うように前に立つ。
やがて、光が収束し、地響きのような唸りが静まると、私たちの目の前で、あの巨大な石の扉が、ゆっくりと、しかし荘厳に、その内側へと開き始めた。
扉の向こうから、冷たい、しかしどこまでも澄み切った空気が流れ込んでくる。それは、まるで満天の星空を凝縮したかのような、濃密な魔力の香り。そして、目の前に広がるのは、暗闇ではない。無数の星々が、まるで手の届く距離で煌めき、どこまでも続くかのような、神秘的な空間――。
「……これが……『星詠みの間』……」
私の口から、呆然とした呟きが漏れる。
恐怖と、畏怖と、そして、ほんの少しの好奇心。
様々な感情が渦巻く中、私は、自らの血によって開かれた、未知なる「物語」への扉を、ただ、見つめることしかできなかった。
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