第47話 螺旋の囁きと、試される心
「さあ、行くぞ。我々の、そしてこの世界の運命を賭けた、最後の『読書会』の始まりだ」
フードの「主」の言葉を合図に、私たちは、光差す螺旋階段へとその第一歩を踏み出した。ひんやりとした、しかし清浄な空気が肌を撫でる。壁には、星々を模したのか、あるいは魔力を帯びた鉱石なのか、無数の青白い光点が埋め込まれ、まるで星空の中を下っていくかのような、幻想的な光景が広がっていた。
(……綺麗ですわ……。まるで、物語の中に出てくる、天へと続く塔のようですわね。……まあ、わたくしたちは、天ではなく、王宮の地下深くへと向かっているのですけれど)
私は、そのあまりの美しさに、一瞬、自分たちが置かれている危機的状況を忘れ、うっとりと周囲を見渡した。この先に待つのが、恐ろしい試練や、邪悪な「影」との対決でなければ、どれほど素晴らしい冒険となったことだろう。
「ミレイユ司書、足元にお気をつけて。この階段、見た目とは裏腹に、滑りやすいようです」
レオンハルト様が、常に私の半歩前を歩き、注意深く周囲を警戒しながら声をかけてくれる。彼のその真摯な姿は、この幻想的で、しかしどこか不安を掻き立てる空間において、唯一の確かな支えのように感じられた。
カイエン隊長は、先頭を歩く「主」の少し後ろで、音もなく、しかし常に鋭い視線を周囲に巡らせている。彼の存在そのものが、まるで抜き身の刃のような緊張感を放っており、この場所がただ美しいだけの場所ではないことを、雄弁に物語っていた。
どれほど下っただろうか。螺旋階段は、どこまでも、終わりなく続いているように感じられた。時間の感覚が曖昧になり、自分の足音と、衣擦れの音だけが、静寂の中に響く。
その、静寂を破ったのは、私の脳内に直接響いてきた、一つの「声」だった。
『……戻っておいで……』
(……え?)
それは、フードの「主」の声とは違う。もっと甘く、そして抗いがたいほどに優しい、懐かしい声。
『……もう、戦わなくていい……。辛いことも、怖いことも、ここには何もない……』
ハッと顔を上げると、目の前の光景が変わっていた。ひんやりとした石の階段は消え、私は、柔らかな陽光が差し込む、見慣れた場所に立っていた。――王立図書館「ルミナ・アーカイブ」の、あの静かで、心地よい閲覧室に。
「こ、ここは……?」
目の前には、愛用の長椅子。その隣のテーブルには、湯気の立つ紅茶と、焼きたてのスコーンが置かれている。そして、私の膝の上には、読みかけだった、あの胸躍る英雄譚の本が……。
『さあ、お座りなさい。お前のために、とっておきの茶葉を用意した……。物語の続きを、心ゆくまで楽しむといい……』
声が、優しく私を誘う。ああ、なんて素晴らしいのでしょう。これこそ、わたくしが心の底から求めていた、完璧な日常。もう、あの恐ろしい化け物も、理不尽な隊長も、世界の危機も、ここには何もないのだ。
私が、ふらふらと、まるで夢遊病者のように長椅子へ向かおうとした、その時だった。
「――ミレイユ司書ッ! しっかりなさい!」
レオンハルト様の、悲鳴に近い叫び声が、私の意識を激しく揺さぶった。
はっと我に返ると、目の前にあったはずの閲覧室は跡形もなく消え去り、私は、螺旋階段の淵に、危うく足を踏み外さんばかりにして立ち尽くしていた。
「あ……わたくし……何を……?」
「……『影』の囁きか。精神に直接干渉してくる、厄介な代物だ」
背後から、カイエン隊長の苦々しげな声が聞こえる。彼の顔も、常の無表情とは異なり、わずかに険しいものとなっていた。
「くっ……!」
今度は、レオンハルト様が、呻き声と共に膝をついた。その瞳は、何か恐ろしいものを見るかのように、虚空を睨みつけている。
「陛下……なぜ……! 私の忠義が、足りなかったと仰るのですか……!?」
彼の心の中にもまた、「影」が囁きかけているのだ。騎士としての誇り、王への忠誠心、そして、守りきれなかったという無力感……彼の最も弱い部分を、的確に抉るように。
「レオンハルト様! しっかりしてくださいまし! それは偽物ですわ!」
私が叫ぶが、彼の耳には届いていないようだ。このままでは、彼の心が折られてしまう!
『……そうだ、お前には何もできぬ……。お前が愛する本の世界だけが、お前を守ってくれる……。さあ、こちらへ……』
再び、私の脳裏に甘い声が響く。今度は、目の前に、あの隠れ家の素晴らしい図書室の幻影が浮かび上がった。
(ああ……あの図書室……。わたくしは、ただ……)
心が、再び誘惑に引きずり込まれそうになる。しかし、その時、私の脳裏に、別の光景が鮮やかに蘇った。――水晶に映し出された、悲壮な覚悟を秘めた先祖の瞳。そして、自らの口で言い放った、あの言葉。
『わたくし自身の目で、この「物語」の結末を、確かめたいのです!』
そうだわ……!
「……ふざけないでくださる!?」
私は、心の底からの怒りと共に、叫んだ。
「わたくしが読みたいのは、結末の決まった、誰かに与えられた物語ではございませんわ! たとえそれが、どんなに泥と埃にまみれた、みっともない物語であったとしても……わたくし自身が、この足で歩き、この目で見て、そして、この手で掴み取る、わたくしだけの『物語』ですのよ!」
その言葉に応えるかのように、私の胸元で、「魂の共鳴石」が、そして左手の銀の指輪が、強い緑色の光を放った! その光は、まるで守りの盾のように私の全身を包み込み、脳内に響いていた甘い囁きと、目の前の幻影を、かき消していく!
「あ……!」
光が収まると、私の頭の中は、先ほどまでの混乱が嘘のように、澄み渡っていた。レオンハルト様も、はっと我に返り、荒い息をつきながらも、正気を取り戻したようだ。
「……見事だ、元悪役令嬢。どうやら、お前のその『渇望』は、邪悪な『影』の囁きよりも、一枚上手のようだな」
カイエン隊長が、初めて、ほんの少しだけ、感心したような色をその声に滲ませた。
先頭を歩いていた「主」が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……最初の『試練』は、乗り越えたようだな。だが、安心するのはまだ早い」
彼女が指さす先、螺旋階段の終着点には、巨大な、そして複雑な紋様が刻まれた、重々しい石の扉が見えていた。その扉の中心は、まるで鍵穴のように、ぽっかりと口を開けている。
「ここが、『星詠みの間』への入り口だ。だが、この扉を開くためには、さらなる『鍵』が必要となる」
私たちの前に、新たな謎と試練が立ちはだかる。しかし、今の私の心には、先ほどまでの迷いはなかった。
私は、その重々しい扉を、まっすぐに見据える。
(望むところですわ。どんな試練が待ち受けていようとも、わたくしの『物語』の、本当の始まりは、この扉の向こうにあるのですから!)
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