第49話 星詠みの間と、物語の始まり
自らの血を捧げることで開かれた、重々しい石の扉。その向こう側から流れ込んでくるのは、冷たく澄み切り、そして星々の香りを凝縮したかのような、濃密な魔力を含んだ大気だった。私は、目の前に広がる光景に、完全に言葉を失っていた。
そこは、「部屋」という概念を超越した空間だった。
床も、壁も、天井もない。見渡す限り、どこまでも続くかのような漆黒の闇が広がり、その中に、数えきれないほどの星々が、まるでダイヤモンドダストのように煌めいている。私たちは、宇宙に浮かぶ一本の、黒曜石でできた道の上に立っているかのようだ。足元を見下ろせば、そこにもまた銀河が渦を巻き、まるで星空の上を歩いているかのような、不思議な浮遊感に包まれる。
「……なん……ですの……ここは……」
私の口から、呆然とした呟きが漏れる。それは、これまでどんな本の中でも読んだことのない、あまりにも幻想的で、そして荘厳な光景だった。
「……これが……『星詠みの間』……。古の時代、世界の理と運命を読み解くために作られた、聖域の中の聖域」
私たちの背後から、フードの「主」の静かな声が響く。彼女は、扉の外から、この空間へは一歩も足を踏み入れようとはしなかった。
「我々が案内できるのは、ここまでだ。この先は、お前たちだけの……いいや、ミレイユ=フォン=ローデル。お前だけの『舞台』だ」
その言葉に、私はゴクリと唾を飲み込む。
「主」は、続ける。
「中央へ進め。そこにお前の、そしてこの世界の運命を記した『始まりの石版』がある。だが、心せよ。お前がこの場所に足を踏み入れた瞬間から、『影』もお前の存在を、より鮮明に感じ取るだろう。残された時間は、ない」
その言葉を最後に、「主」は静かに一礼すると、重々しい石の扉が、再びゆっくりと閉まり始めた。ゴゴゴ……という地響きと共に、私たちの退路は完全に断たれてしまったのだ。
「さあ、どうする、元悪役令嬢。お望み通り、とんでもなく壮大な物語の最終章に、主役として立たされた気分はどうだ?」
カイエン隊長が、どこか面白がるような、それでいて試すような口調で私に問いかける。
私は、彼の言葉に、ふっと笑みを漏らした。それは、恐怖や不安を通り越した、どこか吹っ切れたような笑みだった。
「……ええ、悪くはございませんわ。これほど豪華な舞台を用意されたのですもの。それに……これほどまでに面白そうな『物語』を、結末も知らずに放り出すなんて、本好きの名折れですわ」
私は、胸を張ってそう言い放つと、レオンハルト様の方へ向き直った。
「レオンハルト様、お覚悟はよろしいですわね?」
私の、いつになく凛とした態度に、レオンハルト様は一瞬、目を丸くしたが、やがて、これ以上ないほどに真摯な、騎士の顔で力強く頷いた。
「……はい! ミレイユ司書が共におられるのなら、このレオンハルト、たとえ星々が落ちてこようとも、恐れるものなどございません!」
その言葉は、少し大袈裟だったけれど、今の私には、何よりも心強く感じられた。
私は、二人の顔を見回し、そして、星空の道へと、その第一歩を踏み出した。
一歩、足を踏み出すごとに、周囲の星々が、まるで私の血に呼応するかのように、キラキラと輝きを増していく。そして、私たちの周囲に、淡い光でできた幻影が、ゆらりと浮かび上がり始めた。
「……これは……『記憶の泉』で見たものと……!?」
それは、かつてこの世界で起こった出来事の断片――「記憶」の残滓だった。
壮麗な王城での祝宴、力強い王の演説、そして、その傍らで静かに佇む、ローデル家の先祖であろう巫女の姿。彼女たちの間には、確かに、固い信頼と絆があったのだろう。
だが、道を進むにつれて、その光景は次第に不穏なものへと変わっていく。
突如として世界を襲った、巨大な災厄の影。空が裂け、大地が呻き、人々が恐怖に怯える姿。その災厄を前に、王と巫女が、何か重大な決断を迫られている、緊迫した場面……。
「……これが……『契約』が結ばれる、きっかけとなった出来事……」
レオンハルト様が、息を呑んでその光景を見つめている。
カイエン隊長は、黙して語らないが、その黒曜石の瞳は、まるで全ての情報を脳裏に焼き付けるかのように、鋭く幻影を追っていた。
私は、まるで自分がその場にいるかのような臨場感に、鳥肌が立つのを感じていた。これは、ただの映像ではない。そこに生きた人々の、喜び、悲しみ、そして決意……その全てが、魂に直接流れ込んでくるかのようだ。
(……なんて……なんて、壮大で、そして、悲しい物語なのでしょう……)
私は、この物語の結末を、そして、その中で懸命に生きた人々の思いを、確かに受け止めなければならない、と強く思った。
やがて、幻影の道が途切れ、私たちの目の前に、空間の中央に浮かぶ、巨大な祭壇が見えてきた。黒曜石の床の中心が、緩やかに盛り上がり、その頂には、一枚の、星々の光を宿したかのように輝く、巨大な石版が安置されている。あれが、『始まりの石版』……!
私が、その石版に吸い寄せられるように、あと数歩、足を踏み出そうとした、その時だった。
―――ゾクリ。
全身の毛が逆立つような、強烈な悪寒。
それまで静かだったこの空間の空気が、突如として、鉛のように重くなった。甘い囁きではない。圧倒的な、そして底知れぬ悪意に満ちた「存在感」が、この神聖な空間の外側から、私たちを、いや、私を、値踏みするように見つめているのを、肌で感じた。
「……来たか、『影』め」
カイエン隊長が、吐き捨てるように呟き、短剣を抜き放つ。レオンハルト様も、私を庇うように剣を構えた。
私の左手の銀の指輪が、これまでにないほど激しく脈打ち、警告のように熱を発する。
どうやら、この物語の最後のページをめくるには、最大の「敵役」との対決は避けられないらしい。
私は、ごくりと唾を飲み込み、目の前の輝く石版と、背後から迫る邪悪な気配を、交互に見据えた。
恐怖に足が竦む。だが、それ以上に、私の心の中には、確かな、そして燃えるような決意の炎が灯っていた。
(望むところですわ! どんな悪役が出てこようとも、この物語の結末は、わたくしが決めさせていただきますから!)
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