第46話 動き出した「影」と、残された道

「元悪役令嬢。お前がその『力』を覚醒させ、そして『契約』の真実をその手に掴むことが、この狂った状況を打開する、唯一の道かもしれんのだぞ」


 カイエン隊長の重い言葉が、図書室の静寂を切り裂く。彼の黒曜石のような瞳は、真っ直ぐに私を捉え、その奥には、これまで見たこともないような、切迫した光が宿っていた。生贄ですって? わたくしが? この国の危機を救うために?


(……話が……話があまりにも、壮大になりすぎておりませんこと!? わたくし、求めていたのは、せいぜい図書館の片隅での平穏な日常と、たまに食べる新作タルトの甘美なひとときくらいでしたのに!)

 あまりにも非現実的な展開に、私の思考回路はショート寸前だ。これは、どんな三文小説よりも荒唐無稽で、ご都合主義な筋書きに違いなかった。


「ふざけるなッ!」

 沈黙を破ったのは、レオンハルト様の怒声だった。彼の顔は怒りで赤く染まり、その手は既に、鞘走る寸前の剣の柄を強く握りしめている。

「ミレイユ司書を生贄になど、誰がさせるものか! 大体、国王陛下がご自身の意思で、そのような非道な判断を下されるはずがない! カイエン殿、貴方が王宮で見たという『アレ』とは、一体何なのですか! 全てを話していただきたい!」


 その通りだわ、レオンハ-ト様! もっと言ってやって!

 私も、レオンハルト様の背中に隠れるようにして、カイエン隊長を睨みつける。そうだ、全てはこの「アレ」とかいう、意味不明な存在のせいなのだ。その正体さえ分かれば、あるいは……。


 しかし、カイエン隊長は、レオンハルト様の激昂を冷ややかに一瞥するだけだった。

「……愚かな。お前のその真っ直ぐな忠誠心が、今は己の目を曇らせていることに気づかぬか」

 彼は、まるで忌々しい何かを思い出すかのように、一度、固く目を閉じた。そして、再び開かれたその瞳には、確かな、そしておぞましいほどの確信が宿っていた。


「……俺が見たのは、もはや我々の知る国王陛下ではなかった。執務室の玉座に座っていたのは、陛下のお姿を借りた、昏く、そして底知れぬ悪意を宿した……『影』のような何かだ」


「か、影……ですって……?」

 私の口から、か細い声が漏れる。


「ああ」

 カイエン隊長は、静かに頷いた。

「おそらくは、『契約』の力が弱まり、永きに渡り封じられていた何かが、現実世界へ干渉を始めたのだろう。それは、意思を持つ呪いそのものか、あるいは、異界から漏れ出した悪意の集合体か……。正体は分からん。だが、奴は『契約』の力を完全に我が物にしようとしている。そのために、最も純粋な『器』であるお前を、生贄として求めているのだ」


 そのあまりにもおぞましい話に、私とレオンハルト様は言葉を失う。国王陛下に成り代わった、邪悪な影。そして、その影が、私を求めている……?


「そ、そんなことが……。では、陛下ご自身は……!?」

 レオンハルト様が、震える声で尋ねる。

「……分からん。魂を喰われたか、あるいは、意識の奥底で、今もその『影』と戦っておられるのか……。だが、もはや王宮は、完全にその『影』の支配下にあると見ていい」


 絶望的な状況。私たちの敵は、もはや王宮騎士団という組織ではない。この世界そのものを蝕もうとする、得体の知れない悪意そのものだったのだ。


「……では、我々は……もう……」

 レオンハルト様が、力なく膝をつきそうになる。彼の信じてきた世界が、足元から崩れ去っていくような、そんな深い絶望がその横顔に浮かんでいた。


 その時だった。

「――そうだ。もはや、道は一つしか残されておらぬ」

 いつの間にか、私たちの背後に、フードの「主」が静かに立っていた。その声は、いつも通り落ち着いているが、その奥には、燃えるような決意が感じられた。


「ミレイユ=フォン=ローデルの『覚醒』を待っていては、手遅れになるやもしれぬ。カイエンが王宮から持ち帰った『契約の破片』の情報……そして、ミレイユ、お前のその『書』と『指輪』。全ての『鍵』は、今ここに揃った」

「主」は、私たち三人を順番に見つめ、そして、厳かに告げた。


「これより、我々は、この地下迷宮に隠された、最も古く、そして最も危険な経路を使い、一気に『星詠みの間』を目指す。そこは、王宮の地下深くに位置するが、通常の経路では決して辿り着けぬ場所だ」

 彼女が示す先には、図書室の床の一部が、静かに開き、下へと続く螺旋階段が現れていた。その奥からは、星の光とも魔力ともつかない、不思議な輝きが漏れ出している。


「カイエン、お前の『組織』の者たちには、追手の撹乱を命じておいた。だが、稼げる時間はごくわずかだ。レオンハルト、お前の騎士としての覚悟、そしてミレイユ、お前の本好きとしての『渇望』……今こそ、それら全てを力に変える時だ」


 私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。目の前に現れた、光へと続く螺旋階段。それは、まるで、物語のクライマックスへと続く道のようだ。


(……生贄だなんて、まっぴらごめんですわ。それに、王様が邪悪な影に乗っ取られたなんて、そんなバッドエンド、わたくしが許しません!)

 私の心の中で、恐怖と、ほんの少しの義憤と、そして何よりも、このとんでもない「物語」の結末を、自分の目で見届けたいという、抗いがたい本好きの魂が、小さな、しかし確かな炎を灯した。


「……望むところですわ」

 私は、顔を上げ、カイエン隊長と、レオンハルト様、そしてフードの「主」を見据えた。

「ただし、この事件が解決した暁には、王立図書館の『禁断の書庫』の、年間フリーパスくらいは要求させていただきますからね! 覚悟しておきなさい!」


 私の、どこまでもブレない宣言に、カイエン隊長は初めて、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口の端を上げたように見えた。レオンハルト様は、私のその言葉に勇気づけられたのか、力強く立ち上がり、その瞳に再び闘志の光を宿していた。


「さあ、行くぞ。我々の、そしてこの世界の運命を賭けた、最後の『読書会』の始まりだ」

「主」の言葉を合図に、私たちは、光差す螺旋階段へと、その第一歩を踏み出したのだった。

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