第45話 予期せぬ帰還と、王宮の凶兆

「……状況が変わった。王宮の『アレ』が、思ったよりも早く動き出したらしい」


 カイエン隊長の、常ならぬ焦燥を帯びた声が、静まり返っていた隠れ家の図書室に鋭く響いた。その言葉の意味を正確に理解できたわけではない。だが、彼の険しい表情と、その黒衣にまとわりつく土埃と朝露の匂いが、ただならぬ事態が進行中であることを雄弁に物語っていた。


(王宮の……『アレ』……ですって? 一体、何のことかしら? まさか、わたくしを捕らえに来た、あのしつこい騎士団のことではなさそうですけれど……)

 私の脳裏に、あの「生死不問」という物騒な言葉と共に、剣を抜き放った騎士たちの姿が蘇り、背筋がぞっとする。


「カイエン殿! いったい何があったのですか!? 王宮の『アレ』とは……?」

 レオンハルト様が、驚きと警戒をない交ぜにした表情で、カイエン隊長に詰め寄る。彼の騎士としての勘が、カイエン隊長の言葉の裏に潜む不吉な何かを敏感に感じ取っているのだろう。


 カイエン隊長は、レオンハルト様の問いには直接答えず、その鋭い黒曜石のような瞳で私を射抜いた。その視線は、まるで私の魂の奥底まで見透かそうとするかのように深く、そしてどこか探るような色を帯びている。

「……元悪役令嬢。お前が『記憶の泉』で見たもの、そしてあの『書』から得た情報……。それは、王宮の連中が血眼になって探している『契約』の核心にどこまで迫るものだった?」


 その問いかけは、あまりにも唐突で、そして核心を突いていた。私は、一瞬言葉に詰まる。あの水晶で見た衝撃的な映像、そして黒い本から脳内に流れ込んできた「契約」の断片……。それらは、まだ私の頭の中で整理しきれていない、あまりにも巨大で、そして複雑なパズルのピースのようだったから。


「そ、それは……王家とローデルの血、そして『古き力』に関する、重大な取り決め……。そして、その契約が破られた場合に、世界に危機が訪れるかもしれない、と……」

 私が、かろうじて言葉を紡ぐと、カイエン隊長の眉間の皺が、さらに深くなったように見えた。

「……やはりな。お前は、我々が想像していた以上に、深淵に触れてしまったらしい」


 その言葉に、私はゴクリと唾を飲み込む。私が垣間見た「物語」は、やはり、それほどまでに危険で、そして重要なものだったというのか。


「カイエン殿、どうかご説明ください! いったい何が起こっているのですか! 我々は、これから『星詠みの間』へ向かうはずでは……!」

 レオンハルト様が、焦れたように再びカイエン隊長に迫る。彼の額には、うっすらと汗が滲んでいた。


 カイエン隊長は、一度大きく息を吐き出すと、まるで重い枷を外すかのように、ゆっくりと口を開いた。

「……王宮の最深部、『禁断の書庫』のさらに奥……星々を読むと言われる『占星盤』が、今朝方、不吉な光を放ったらしい」

 その声は低く、そしてどこか押し殺したような響きを持っていた。


「占星盤が……不吉な光を……?」

 レオンハルト様が、息を呑む。王宮の占星盤は、国家の吉凶を占うための最も重要な神器の一つであり、それが凶兆を示したとなれば、ただ事ではない。


「そして、それと時を同じくして、国王陛下が……ご自身の執務室で、何者かに襲われた、と」

 カイエン隊長の言葉は、さらに衝撃的だった。

「なっ……! 国王陛下が、ご自身の執務室で……!? まさか、暗殺未遂とでもいうのですか!?」

 レオンハルト様の顔から、血の気が引いていくのが分かった。


(国王陛下が……襲われた……ですって!? いったい誰が、そんな大それたことを……? そして、それが、わたくしたちと何の関係があるというの……?)

 私の頭の中は、混乱と疑問でいっぱいだった。


 カイエン隊長は、苦虫を噛み潰したような表情で続ける。

「……犯人は不明。だが、王宮内は厳戒態勢が敷かれ、全ての門は封鎖された。そして何より……国王陛下の側近の一部が、この事件を『古き血の呪い』によるものだと騒ぎ立てているらしい。そして、その『呪い』を解くためには、ローデルの娘……つまり、お前を生贄として捧げる必要がある、と」


「い、生贄ですってぇぇぇぇぇ!?」

 私の口から、甲高い悲鳴がほとばしる! ちょっと待ってくださいまし! 話が、あまりにも飛躍しすぎではありませんこと!? わたくし、ただ本を読んで静かに暮らしたいだけの、しがない元悪役令嬢ですのに、どうしてそんな物騒な物語のヒロイン(しかも悲劇の)に抜擢されなければならないの!?


「馬鹿な! そんなことが許されてたまるものですか! それは、明らかに何者かの陰謀ですぞ!」

 レオンハルト様が、激昂した様子で叫ぶ。その手は、既に剣の柄を強く握りしめている。


 カイエン隊長は、そんな私たちを一瞥すると、冷ややかに言い放った。

「……陰謀だろうとなんだろうと、今の王宮は、その『生贄』を求める声で満ちている。そして、その『生贄』を確保するためならば、奴らはどんな手段も厭わんだろう。……フードの『主』が用意したこの隠れ家も、もはや時間の問題かもしれん」


 その言葉は、私たちに突きつけられた、あまりにも過酷な現実だった。束の間の安息は終わりを告げ、再び、私たちは絶体絶命の危機に瀕しているのだ。


「では……『星詠みの間』へ向かうというのは……?」

 私が、かろうじて震える声で尋ねると、カイエン隊長は、懐から例の黒い本を取り出し、私の目の前に突き出した。

「……計画は変更だ。だが、目的地は変わらん。いや、むしろ、より一層、そこへ急ぐ必要が出てきた」


 その黒曜石のような瞳が、私を真っ直ぐに見据える。

「元悪役令嬢。お前がその『力』を覚醒させ、そして『契約』の真実をその手に掴むことが、この狂った状況を打開する、唯一の道かもしれんのだぞ」


 彼の言葉は、重く、そして有無を言わせぬ響きで、私の心に突き刺さった。

 私の選択は……そして、私たちの運命は、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。

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