第44話 つかの間の読書と、夜明けの来訪者
図書室での時間は、まるで夢のように過ぎていった。あれほどまでに焦がれていた読書三昧の日々――たとえそれが、嵐の前の静けさに過ぎないとしても、今の私にとっては、何物にも代えがたい至福のひとときだった。
「ミレイユ司書、そろそろお休みになられては? 明日は早朝からの出発ですぞ」
レオンハルト様が、何度かそう声をかけてくれたが、私は「もう一冊だけ……! この章の区切りがよろしいところまで……!」と、まるで魔法にかかったかのように本の世界に没頭していた。歴史書を紐解けば、そこには「記憶の泉」で見た光景を裏付けるかのような記述があり、冒険小説を読めば、これから始まるであろう自らの旅路に思いを馳せる。そして、恋愛小説の甘く切ない物語は……まあ、それはそれとして、疲れた心の良い清涼剤となった。
(ああ、やはり本は素晴らしいですわ! どんな困難な状況にあっても、わたくしに勇気と知恵と、そしてほんの少しの現実逃避を与えてくださる……!)
一方、レオンハルト様は、私が読書に没頭している間、図書室の隅で武具の手入れをしたり、あるいは地図を広げて今後の行程について真剣に考え込んだりしていた。その横顔には、騎士としての責任感と、そして私への気遣いが滲み出ている。時折、彼が私の方へ向ける視線には、どこか複雑な思いが込められているように感じられたが、今の私は、目の前の物語に夢中で、それに気づく余裕はなかった。
彼が何を考えていたのか、知る由もなかった。おそらくは、カイエン隊長という強力な戦力を欠いた状態での旅への不安、そして、私という守るべき(そして、時としてとんでもない行動に出る)存在を抱えての任務の重圧。さらに言えば、「主」と名乗る謎の人物への、拭いきれない不信感もあったのかもしれない。彼の騎士道精神は、このような正体不明の組織に唯々諾々と従うことを、本心では良しとしていないのだろう。
そんなこんなで、あっという間に夜は更け、私はいつの間にか、ふかふかの長椅子の上で、読みかけの本を胸に抱いたまま眠り込んでしまっていたらしい。最後に読んでいたのは、確か、勇敢な王女様が知恵と勇気で国を救う、胸躍る英雄譚だったはずだ。
ふと、頬を撫でる柔らかな感触に意識が浮上する。
「ん……ふわぁ……。もう朝ですの……?」
ゆっくりと目を開けると、そこには、私の肩にそっと毛布をかけようとしているレオンハルト様の姿があった。その表情は、どこか優しく、そしてほんの少しだけ、困ったような笑みを浮かべている。
「ミレイユ司書、おはようございます。昨夜は、随分と熱心に読書をなさっていましたな」
「あ……! レオンハルト様! も、申し訳ございません! わたくしとしたことが、つい……!」
慌てて長椅子から起き上がろうとする私を、レオンハルト様は優しく制した。
「いえ、お気になさらず。貴女が少しでも心安らぐ時間を過ごせたのなら、何よりです」
その言葉に、私の胸はほんのりと温かくなった。この騎士様は、本当にどこまでもお人好しで、そして優しい方なのだろう。……まあ、そのお人好しさが、時として若干、空回りすることもあるのだけれど。
「さあ、出発の準備をいたしましょう。従者の方が、朝食を用意してくださっているようです」
レオンハルト様に促され、私は寝ぼけ眼をこすりながらも、新たな旅立ちへの覚悟を新たにする。図書室に後ろ髪を引かれる思いは山々だが、あの「主」様が「また使ってよい」と仰ってくださったのだ。それを信じて、今は前へ進むしかない。
簡単な朝食――焼きたてのパンと、温かいスープ、そして果物という、ここ数日のことを思えば望外の馳走――を済ませ、私たちは出発の準備を整えた。「主」から渡された「魂の共鳴石」は、私の首飾りに結びつけられ、あの黒い本は、レオンハルト様が用意してくれた丈夫な革袋に大切にしまわれた。私の服装も、さすがにあのボロボロのドレスではまずいと判断されたのか、動きやすい旅装と、しっかりとした革のブーツが用意されていた。……まあ、それでも、どこかお嬢様育ちの抜けきらない、若干場違いな雰囲気は否めないけれど。
全ての準備が整い、私たちが図書室を出ようとした、その時だった。
隠れ家の入り口の方から、微かに、しかし慌ただしい複数の足音が聞こえてきたのだ。それは、この隠れ家の従者たちのものとは明らかに異なる、もっと切迫した響きを持っていた。
「……何か、あったのでしょうか?」
レオンハルト様が、眉を顰め、剣の柄に手をかける。私も、嫌な予感を覚え、ゴクリと唾を飲み込んだ。まさか、こんなところまで追手が……!?
しかし、次の瞬間、私たちの前に姿を現したのは、予想だにしない人物だった。
息を切らせ、その黒衣を土埃と朝露で汚しながらも、その双眸だけは鋭い光を失っていない――カイエン隊長、その人であった。
彼の突然の帰還に、私とレオンハルト様は言葉を失い、ただ呆然と彼を見つめる。その表情は、常の冷静沈着さとは程遠く、どこか焦燥の色を浮かべているように見えた。そして、彼の口から発せられた言葉は、私たちの新たな旅立ちに、いきなり暗雲を投げかけるものだった。
「……状況が変わった。王宮の『アレ』が、思ったよりも早く動き出したらしい」
(王宮の……『アレ』……ですって!?)
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
束の間の安息は終わりを告げ、再び、否応なく、私たちは運命の濁流へと飲み込まれようとしていた。
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