第36話 戸惑いの答えと、示された道

「お前は……その『力』と、その『運命』を、どうしたい?」


 フードの奥から発せられた問いは、重く、そして鋭く私の心に突き刺さった。どうしたい、ですって……? そんなこと、考えたこともなかった。ただ、この厄介な状況から逃れて、愛する本に囲まれた平穏な日々を取り戻したい――それだけを願っていたのだから。


 部屋には、重苦しい沈黙が流れる。焚きしめられた香木の香りが、私の混乱をさらに深めるかのようだ。私の答えを待つ「主」の気配は、静かだが、有無を言わせぬ圧力を放っている。


「……わたくしは……」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、そして頼りなかった。

「わたくしは……ただ、静かに……穏やかに、本を読んで暮らしたいだけですの。特別な力も、大層な運命も、望んではおりません。もし……もしこの力が、そのための邪魔になるというのなら……そんなもの、ない方がよほど……」


 そこまで言いかけて、私はハッとした。本当に? 本当に、この力を、そしてこれまでの出来事を、全てなかったことにしたいのだろうか? あの石像の恐怖、四つ目獣の咆哮、そして、脳内に直接流れ込んできた、あの荘厳で、どこか心を揺さぶるような「声」と「映像」……。それらが、私の日常を根底から覆したことは間違いない。しかし、同時に、私の心の奥底で、何かが変わり始めているのも、また事実だった。


「……いいえ」

 私は、かぶりを振った。

「……正直に申しますと、わたくしにはまだ、何も分かりません。この力が何なのか、この運命がわたくしをどこへ導こうとしているのか……。ただ、一つだけ……あの本に触れた時、わたくしは確かに、何かを感じました。それは、恐怖だけではなかった……。あれは……」


 言葉に詰まる私を、フードの人物は静かに見つめている。その視線は、まるで私の心の奥底を覗き込んでいるかのようだ。


「……あれは、知りたい、という気持ち……だったのかもしれませんわ。あの『契約』とは何なのか、わたくしの血筋に何が隠されているのか……そして、あの本が、わたくしに何を伝えようとしているのか……。不本意ながら、そう思ってしまったのも……事実ですの」


 言い終えると、私は俯いた。こんな答えで、この謎の「主」は納得するのだろうか。あるいは、一笑に付されるのだろうか。


 しばらくの沈黙の後、フードの人物が、ふっと息を漏らすような音を立てた。それは、呆れたような、それでいてどこか面白がるような、不思議な響きだった。

「……なるほどな。恐怖と好奇心、そして本への渇望か。実に、ローデルの血らしい答えだ」


 その言葉に、私は顔を上げた。

「……やはり、貴女様は、わたくしのことを……?」


「我々は、永きに渡り『観測者』として、この世界の均衡を見守ってきた。そして、ローデルの血筋と、それにまつわる『契約』のことも、な」

 フードの人物は、ゆっくりと立ち上がった。その動きは、水が流れるように滑らかで、優雅だ。

「お前が手にした『書』は、契約の真実と、失われた力を取り戻すための道標。そして、その指輪は、お前の血に呼応し、力を増幅させる触媒となるだろう」


 彼女は、部屋の隅に置かれた、星図のようなものが描かれたタペストリーの前に立つ。

「だが、力には代償が伴う。そして、その力は、使い方を誤れば、世界を、そしてお前自身をも滅ぼしかねない諸刃の剣だ」


 その言葉は、カイエン隊長が言っていたことと重なる。やはり、この力は、それほどまでに危険なものなのだろうか。


「わたくしは……どうすれば……」

 私の不安げな問いに、フードの人物は、タペストリーの一点を指さした。そこには、ひときわ強く輝く星が描かれている。

「進むべき道は、お前自身が決めることだ。だが、我々はそのための『場』と、いくつかの『知識』を提供することができる」


 彼女は、私の方へと向き直った。フードの奥の瞳が、先ほどよりも強く、そしてどこか慈しむような光を宿したように感じられた。

「ミレイユ=フォン=ローデルよ。お前には、選択肢がある。一つは、このまま全てを忘れ、我々の庇護の元で、ささやかながらも安全な暮らしを送ること。……もちろん、望むならば、ささやかな図書室くらいは用意してやろう」


(図書室ですって!? しかも、安全な暮らし……!)

 その言葉は、今の私にとって、抗いがたいほどの魅力を持っていた。もう、あの恐ろしい追手や、気味の悪い化け物、そして何よりも、あの鉄面皮のカイエン隊長に振り回されることもなくなるのだ!


「……そして、もう一つは」

 フードの人物は、私の心の揺らぎを見透かすように、言葉を続ける。

「その『力』と『運命』を受け入れ、自らの意思で『契約』の真実に立ち向かうこと。それは、茨の道となるだろう。多くの困難と危険が、お前を待ち受けている。だが、その先にこそ、お前が本当に求める『物語』があるのかもしれん」


 本当に求める……物語……?


 私の脳裏に、あの黒い本に触れた時の、圧倒的な情報と、そして胸を焦がすような高揚感が蘇る。あれは、確かに、これまでのどんな本を読むよりも、強烈で、そして心を揺さぶる体験だった。


「……お選びなさい、古き血の乙女よ。お前の魂が、何を求めているのかを」


 部屋には、再び静寂が訪れる。私の心は、二つの選択肢の間で、激しく揺れ動いていた。安全な読書生活か、それとも、危険に満ちた未知なる物語への探求か。


 どちらを選ぶべきか、今の私にはまだ、決められそうになかった。

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