第35話 主の待つ部屋と、新たな問いかけ

 湯浴みを終え、ほんの束の間、人間らしい生活の温もりに触れていた私の前に現れたのは、黒装束の一団とは明らかに異なる雰囲気を纏う、フードを目深にかぶった人物だった。フードの隙間から覗く銀色の髪、そして抑揚の少ない、しかしどこか芯の通った声で告げられた「我らが主がお会いしたい」という言葉は、私のささやかな安らぎを一瞬にして打ち砕いた。


(わ、我らが主……ですって!? まるで、物語に出てくる秘密結社の首領か何かのような言い方じゃありませんこと!? いったい、どんな方がお待ちになっているというの……? できれば、温厚で、話の分かる、そして大量の蔵書をお持ちの方であってほしいものですわ……!)


 私の内心の切実な願いとは裏腹に、銀髪の人物は感情の読めない声で続ける。

「ミレイユ様、こちらへ。主がお待ちです」

 その口調は丁寧だが、有無を言わせぬ響きがあった。もはや、私に選択の余地などないのだろう。先ほどまでの、お風呂上がりの幸福感はどこへやら、再び私の心臓は不安と警戒心で早鐘を打ち始める。


「……わ、分かりましたわ。ご案内、よろしくお願いいたします」

 私は、枕元の本に未練がましい視線を送りつつも、努めて平静を装い、銀髪の人物の後に続いた。レオンハルト様とカイエン隊長は、一体どこにいるのだろうか。まさか、私だけがこの「主」とやらに引き合わされるというの? そう考えると、心細さがいや増す。


 案内されたのは、先ほどの私の部屋よりも少しだけ広い、しかしやはり簡素な調度品しか置かれていない一室だった。部屋の中央には、黒檀と思われる重厚な木の机が一つ。そして、その机の向こう側に、一人の人物が静かに腰を下ろしていた。


 その人物もまた、フードを目深にかぶっており、顔の大部分は影に隠れて判然としない。しかし、その体つきは細身で、どこか女性的なしなやかさを感じさせる。机の上に置かれた手は、白く細く、長い指にはいくつかの指輪が嵌められているのが見えた。部屋全体には、微かに、しかし確かに、どこか高貴で、そして謎めいた香りが漂っている。それは、古い書物と、焚きしめられた珍しい香木が混じり合ったような、不思議な香りだった。


「……よく参られた、古き血の乙女よ」

 フードの奥から発せられた声は、鈴を転がすように美しく、しかしどこか年齢不詳の、不思議な響きを持っていた。その声には、有無を言わせぬ威厳と、そして全てを見通すかのような深い洞察力が感じられる。


(こ、この方が……「主」……!? まるで、物語に出てくる賢者か、あるいは謎多き女王のようですわ……!)


 私は、緊張のあまりゴクリと唾を飲み込み、言葉を発することもできずに立ち尽くす。銀髪の案内人は、いつの間にか音もなく部屋を退出しており、この密室のような空間には、私と、この謎の「主」と名乗る人物だけが取り残されていた。


「……ミレイユ=フォン=ローデル、と申しますわ。この度は……その……お招き(?)にあずかり……」

 しどろもどろになりながらも、私はかろうじて自己紹介をする。悪役令嬢として叩き込まれた社交辞令が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。


 フードの人物は、くすり、と微かに笑ったように見えた。その笑みは、嘲笑でもなく、かといって歓迎でもない、どこか計り知れない感情を含んでいるように感じられた。

「ローデルの娘……。まさか、この時代に、これほどまでに色濃く『血』を受け継ぐ者が現れようとはな。運命とは、実に面白いものだ」


 その言葉に、私はますます混乱する。この方は、私の血筋について、そしてあの「契約」について、一体何をご存知なのだろうか。

「あ、あの……わたくしの血筋が……一体……?」


「お前が知りたがっていることは多いだろう。そして、我々がお前に期待していることもまた、少なくない」

 フードの人物は、ゆっくりと、しかし確かな口調で続ける。

「お前が手にしたあの『書』と、その指輪……。それは、永きに渡り失われていた、世界の均衡を司るための『鍵』の一部。そして、お前自身が、その鍵を正しく用いるための、最後の『器』なのだ」


(ま、また器ですって!? わたくし、そんな大層なものじゃございませんのに! それに、世界の均衡って……!? そんな壮大な話、わたくしのようなしがない一介の元悪役令嬢には、荷が重すぎますわ!)


「……そのお言葉……恐れながら、わたくしには何のことやら……。わたくしは、ただ、静かに本を読んで暮らしたいだけの、平凡な人間ですのに……」

 私の必死の訴えに、フードの人物は、静かに首を横に振った。

「平凡、か。ローデルの血を引く者が、平凡であった試しはない。お前がそれを望むと望まざるとに関わらず、な。……さて、ミレイユ=フォン=ローデルよ。お前に一つ、問いたいことがある」


 その声には、先ほどまでのどこか夢幻的な響きとは異なる、鋭い光が宿っていた。まるで、私の魂の奥底まで見透かそうとするかのように。


「お前は……その『力』と、その『運命』を、どうしたい?」


(ど、どうしたい、ですって……?)

 予期せぬ問いかけに、私は言葉を失う。そんなこと、考えたこともなかった。ただ、逃れたい、関わりたくない、とそればかりだったから。


 フードの人物は、私の返事を待つかのように、静かに沈黙している。部屋には、焚きしめられた香木の香りと、私の混乱した心臓の音だけが響いていた。


 私の答えは……そして、この謎の「主」の真の目的とは、一体何なのだろうか。

 新たな問いかけは、私の運命を、さらに複雑で、そしておそらくは逃れられない道へと、容赦なく引きずり込もうとしているかのようだった。

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