第37話 揺れる心と、集う者たち

「……お選びなさい、古き血の乙女よ。お前の魂が、何を求めているのかを」


 謎の「主」の言葉が、静かな部屋に重く響く。安全な庇護とささやかな図書室か、それとも危険に満ちた「契約」の真実への探求か。私の心は、天秤のように揺れ動いていた。一方には、もうこれ以上厄介事に関わりたくない、ただ静かに本を読んでいたいという切実な願い。そしてもう一方には、あの黒い本に触れた時の、魂を揺さぶるような感覚と、未知への抗いがたい好奇心。


(安全な図書室……なんと甘美な響きでしょう。毎日、淹れたての紅茶を片手に、窓辺の柔らかいソファで、心ゆくまで読書三昧……。ああ、考えただけで、天にも昇る心地ですわ……)


 しかし、その脳内天国図を打ち消すように、あの荘厳で、どこか悲しげな「声」と、断片的な「契約」の光景が蘇る。王の苦悩、ローブの人物の決意、そして、世界の均衡を揺るがしかねないという、あの不吉な言葉たち。


(……本当に、このまま全てを忘れてしまってよろしいのかしら? あの「声」が、あの「物語」が、わたくしに何かを伝えようとしているのなら……それを無視することは、果たして……)


 私が答えを出せずにいると、フードの「主」は、ふっと息を漏らした。

「……無理に結論を急ぐ必要はない。お前には、考える時間を与えよう。だが、残された時間は、そう多くはないかもしれぬことを、心に留めておくがいい」


 その言葉は、どこか意味深長だった。まるで、何か大きな出来事が、すぐそこまで迫っているとでも言うかのように。


「……今宵は、ゆっくりと休むがよい。お前の仲間たちも、別の部屋で休息を取っている。案ずることはない」

 そう言うと、フードの人物は、音もなく部屋の奥へと下がり、まるで影に溶け込むように姿を消した。一人残された私は、しばし呆然と立ち尽くしていたが、やがて、先ほどの銀髪の案内人が再び現れ、私を別の客室へと案内してくれた。


 案内された部屋は、簡素ながらも清潔で、そして何よりも……壁の一面に、作り付けの本棚があった! そこには、びっしりと様々な分野の本が並べられている。歴史書、詩集、難解そうな魔法理論書、そして、なんと数冊の恋愛小説まで!


「ほ、本ですわ! こんなにたくさんの本が……!」

 私は、先ほどまでの悩みも忘れ、目を輝かせて本棚へと駆け寄った。この隠れ家、もしかしたら思ったよりも快適なのかもしれない!


 しかし、私が一冊の革装丁の本を手に取ろうとした、まさにその時だった。

 部屋の外から、微かに、しかし確実に、複数の人間の話し声と、慌ただしい足音が聞こえてきたのだ。それは、先ほどまでの黒装束の人々とは異なる、もっと切羽詰まったような響きだった。


(な、なんですの……? 何かあったのかしら……?)


 私が不安に思っていると、部屋の扉が勢いよく開き、息を切らせたレオンハルト様が飛び込んできた! 彼の顔には、焦りの色がありありと浮かんでいる。

「ミレイユ司書! 大変です! カイエン殿が……!」


「カイエン隊長が、どうかいたしましたの!?」

 まさか、あの鉄面皮の隊長に限って、何か不測の事態が起こるなんて……!


 レオンハルト様は、言葉を続ける。

「それが……先ほど、カイエン殿の元へ、例の鳥笛の合図とは別の、緊急の連絡が入ったようなのです。何やら、王都で……王宮内で、不穏な動きがあったと……!」


「王宮で、不穏な動きですって!?」

 それは、私たちを執拗に追ってきた、あの国王直属の騎士団のことだろうか? それとも、さらに別の何かが……?


「詳細は不明ですが、カイエン殿は『計画が早まったかもしれん』とだけ言い残し、黒装束の方々と共に、急ぎどこかへ向かわれました! 我々にも、ここで待機し、決して外へは出るなと……!」


 カイエン隊長が……一人で……? あの冷静沈着な男が、そんなにも慌てた様子を見せるなんて、よほどの事態に違いない。そして、彼の言う「計画」とは、一体何のことなのだろうか。


 私の胸の内で、先ほどの「主」の「残された時間は、そう多くはないかもしれぬ」という言葉が、不吉な予感となって蘇る。


「……カイエン隊長は、一体どこへ……? そして、王都で何が起こっているというのです……?」

 レオンハルト様は、悔しそうに唇を噛みしめている。

「分かりません……。しかし、ただここで待っているだけでは……!」


 その時、私たちの背後で、静かに声がした。

「――その必要はない。お前たちにも、同行してもらう」


 振り返ると、そこには、いつの間にか、あのフードの「主」が立っていた。その手には、一枚の羊皮紙が握られている。

「カイエンには、別の『役目』がある。そして、お前たちには……特に、ミレイユ=フォン=ローデル。お前には、この状況を打開するための、新たな『道』を示さねばなるまい」


 フードの奥の瞳が、私を真っ直ぐに見据える。その視線は、もはや選択を委ねるものではなく、有無を言わせぬ決意に満ちていた。


「新たな……道……ですって……?」

 私の平穏な読書生活への道のりは、どうやら、さらに遠く、そして険しいものとなりそうだ。

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