第18話 鉄の扉と迫る足音(そして私の限界)

「……もう、おうちに帰りたい……暖かいお布団で、ゆっくりと、心ゆくまで本が読みたいだけなのに……」


 私の心の叫びは、もはや風前の灯火。カイエン隊長が「勘だ」と言い放った通路は、彼の予告通り、進むにつれてどんどん狭くなり、空気は淀み、壁からは常にジメジメとした水が滴り落ちている。まるで、巨大な何かの消化器官の中を歩いているような気分だわ……。


「うっ……空気が……腐ってますわ……。わたくし、このままでは肺がカビだらけに……」


 ハンカチ(もはや泥と涙と鼻水で元の色が分からない代物)で必死に口元を押さえる私。


「我慢しろ。酸素が薄いだけだ。死にはせん」

 カイエン隊長の、どこまでも冷静で非情なコメント。この人、私が本当にここで朽ち果てても、眉一つ動かさないんじゃないかしら。


「ミレイユ司書、もう少しです! きっと、もう少しで光が見えてきます!」

 レオンハルト様が、相変わらずの爽やかさ(ただし、顔色は土気色)で私を励ましてくれる。そのポジティブシンキング、少し分けてほしいくらいだわ……。


 壁に手をつき、ぜえぜえと息を切らしながら進む私。もはや、自分が令嬢であるとか、悪役であったとか、そんなことはどうでもよくなってきた。ただ、この息苦しくて汚い場所から一刻も早く抜け出したい。それだけだった。


 私が本格的にへたり込みそうになる度、カイエン隊長は無言で私の腕を掴み、まるで出来の悪い人形でも引きずるかのように、半ば強引に前へと進ませる。


「ちょ、やめてくださいまし! 引きずらないで! 自分で歩きますから! ……って、歩けませんけど!」

「自分で歩け。でなければ置いていく」

「そんな非人道的な! 悪魔! 鬼! 冷血漢! 図書館の魔王!」

「ミレイユ司書、ヴァレンティア隊長も、きっと貴女を心配して……その……効率的な移動手段を……」


 レオンハルト様のフォローが、もはやフォローになっていない!


 どれほど歩いただろうか。私の精神が、肉体的な限界よりも一足先に悲鳴を上げ始めた、まさにその時。

 カイエン隊長が、ぴたり、と足を止めた。


「……これか。管理用縦坑だ」


 彼の魔導灯が照らし出したのは、行き止まりのように見える壁。しかし、その壁には、上へと続く錆びついた鉄製の梯子が取り付けられており、天井には円形の、頑丈そうな鉄製の蓋が見えた。


「や……やっと……! やっとですのね! ここから出られるんですのね!」


 思わず、涙ぐんでしまう私。泥まみれの顔に、一筋の希望の光が差した……気がした。


 レオンハルト様も、「おおっ!」と声を上げ、逸る気持ちを抑えきれない様子で梯子に駆け寄り、蓋を調べようと手を伸ばす。しかし……。


「くっ……! やはり、厳重に施錠されている! しかも、錆びついていて、びくともしないぞ!」


 レオンハルト様の絶望的な報告。私の心に灯った豆電球並みの希望の光は、無慈悲にも、ぷつり、と消えた。


「そ、そんな……。せっかくここまで来たというのに……。もうダメですわ……。わたくし、ここで朽ち果てるのね……。せめて、最期は美しい物語に囲まれて……ううう……」


 再びその場にへたり込み、本気で泣きそうになる私。もう、私の精神力はゼロよ!


「私がなんとかしてみせます!」


 レオンハルト様が、騎士の意地とばかりに、剣の柄で鉄の蓋をガンガンと叩き始めた! しかし、鈍い音が響くだけで、蓋はびくともしない。それどころか、錆びた金属片がパラパラと落ちてきて、危ないったらない!


「……貸せ。俺がやる」


 カイエン隊長が、レオンハルト様を(若干、邪魔そうに)押し退け、懐から細長い金属製の道具――どう見てもピッキングツールとしか思えない代物――を数本取り出した。そして、梯子を軽々と登り、黙々と鍵穴らしき部分と格闘し始めたではないか!


 その手際の良さ、無駄のない動き……。私とレオンハルト様は、唖然として、ただその作業を見守るしかない。


「あ、あの……わたくし、昔、推理小説で読んだことがあるのですが、そういう複雑な鍵は、こう……特定の順番で、カチカチっとピンを押し上げていくと……」


 何か役に立てないかと思い、おずおずと口を挟んでみる。


「黙って見ていろ」


 カイエン隊長の、一言のもとに却下。……ですよねー。分かってましたー。


 カイエン隊長が鍵と格闘している、まさにその時だった。

 通路の奥から、微かに、しかし確実に、複数の足音が聞こえてきたのだ! しかも、その足音は、徐々にこちらへ近づいてきている!


「ま、まずいですわ! 追手がここまで来ましたのよ!」


 私の叫びに、レオンハルト様も「ヴァレンティア隊長、急いでください! もう時間がありません!」と焦りを滲ませる。


 カイエン隊長の額に、じっとりと汗が滲む。ピッキングツールを操る手が、先ほどよりも心なしか速くなっている。しかし、鉄の蓋は依然として固く閉ざされたままだ。


 足音は、もうすぐそこまで迫っている! 息を殺し、固唾を飲んでカイエン隊長の手元を見つめる私とレオンハルト様。


 カチッ。


 静寂の中に、小さな、しかし確かな音が響いた。


 開いたのか!? それとも、道具が折れた音!?


 ミレイユは、心臓が喉から飛び出しそうなほどの緊張感の中で、ただただ、鉄の蓋の行方を見守るしかなかった! 果たして、地上への扉は開かれるのか!? それとも、ここで万事休すなのか!?


 (第十八話 了)

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