第17話 地下水路の珍客(?)と壁のシミ(重要)

「……い、今の音、何ですの……? ネズミ……じゃないわよね……? もっと大きくて、歯が鋭くて、人間を主食にしてそうな……そういう感じの……」


 私の顔から、なけなしの血の気が、サーッと引いていくのが自分でも分かった。背中に冷たい汗が流れ、足はガクガクと震え、今にもその場にへたり込みそうだ。


「黙って進め」


 カイエン隊長の、いつも通りの短い命令。この人、恐怖という感情が欠落しているのかしら!? それとも、単に私が怖がりすぎているだけ!? いや、でもあの唸り声は、絶対に普通の生き物のものじゃないわよ!


「ひぃぃぃ……! わ、わたくし、もう一歩も……!」


 半泣きでカイエン隊長の背中に隠れようとする私。その私の肩を、レオンハルト様が力強く(しかし、どこか頼りなく)支えてくれた。


「ミレイユ司書、私が前へ! ご安心ください、このレオンハルト=アーヴィング、命に代えても貴女をお守りいたしますぞ!」


 そう言って、レオンハルト様は腰の剣に手をかけ、一人で盛り上がって(そしてカイエン隊長には完全にスルーされて)いる。その勇姿は大変結構なのだけれど、できればもっと安全な場所で発揮していただきたいものだわ!


 チャプ……チャプ……グルルルル……。


 不気味な水音と唸り声は、徐々に、しかし確実に、私たちの方へと近づいてくる! カイエン隊長が持つ魔導灯の光が、ゆらりと揺らめき、通路の奥の暗闇をぼんやりと照らし出す。そこに、何かの影が見えた……!


(き、来たわ! 絶対にヤバいやつよ! 大きくて、ヌメヌメしてて、牙が鋭くて、目が赤く光ってるような、そんな感じの!)


 私はギュッと目を瞑り、両手で耳を塞ぎ、心の中で「南無阿弥陀仏! 神様仏様ご先祖様! どうかこの哀れな元悪役令嬢をお救いください!」と絶叫した!


 ……しーん。


 あれ? 何も起こらない……? 恐る恐る、片目だけ薄く開けてみると……。


 魔導灯の光の中にいたのは……体長数十センチほどの、ずぶ濡れで、泥だらけの……子犬? いや、子犬にしては耳が丸いし、尻尾が細長い……。あ、これ、もしかして……。


「……ネ、ネズミ……ですの……?」


 私の震える声。そう、そこにいたのは、拍子抜けするほど大きな……ドブネズミだった。いや、大きいと言っても、私の想像していた「人間を主食にするモンスター」とは似ても似つかない、ただの(ちょっと特大サイズの)ドブネズミである。グルルル、と威嚇するような声は出しているけれど、その瞳は恐怖に怯えているようにも見える。


「……な、なんだ……。ただの……ネズミか……」


 レオンハルト様が、緊張の糸が切れたように、がっくりと肩を落とす。剣にかけた手も、力なく下ろされた。その拍子に、足元の小石でも蹴ってしまったのだろうか。


 カラン、と音がして、その音に驚いたドブネズミが、キーキーと甲高い声を上げながら、私たちの足元を猛スピードで駆け抜けていった!


「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」


 今度こそ、私の絶叫が地下水路に響き渡る! ネズミ! ネズミが私の足元を! 無理無理無理! 汚い! 病気がうつる!


 私は、先ほどの虫騒動の時と同様、反射的に一番近くにいたカイエン隊長の腕にしがみついた! もはや、彼の迷惑そうな顔など気にする余裕もない!


「い、いやぁぁぁぁ! ネズミ! ネズミが! 今、確かにわたくしの足首を掠めましたわ! きっと噛まれましたのよ! 破傷風に! ペストに! ああ、もうお嫁に行けませんわ!」

「……落ち着け。掠ってもいないし、噛まれてもいない。大体、お前は結婚する気などないだろう」


 カイエン隊長の、妙に冷静なツッコミ。確かにその通りだけど! 今はそういう問題じゃないの!


 私がカイエン隊長の腕にしがみついて(若干、八つ当たり気味に)じたばたしていると、レオンハルト様が、困ったような、それでいて少し呆れたような顔で私を見ていた。


「ミレイユ司書……。いくらなんでも、少し騒ぎすぎでは……。これでは追手に我々の居場所を教えているようなものですぞ」

「だ、だって! ネズミですのよ! あんなに大きな!」

「……チッ。時間の無駄だったな」


 カイエン隊長が、心底うんざりしたように舌打ちする。その冷たい態度に、私は少しだけ冷静さを取り戻した。……確かに、騒ぎすぎたかもしれないわ。でも、仕方ないじゃない! 怖いものは怖いんですもの!


 私がカイエン隊長からそっと離れようとした、その時だった。ふと、ネズミが走り去った方向の壁に、何やら奇妙な模様が描かれているのが目に入った。苔と汚れでほとんど消えかかっているけれど、それは明らかに人工的な……何かの印?


「あら……? この壁……何か模様が……?」


 何気なく呟いた私の言葉に、カイエン隊長がピクリと反応した。彼は、私が指さす壁に近づき、魔導灯の光を集中させる。そして、汚れた壁の表面を、手袋をした指で慎重に拭った。


「……これは……古い排水経路の、切り替え弁の設置場所を示す印だ。間違いない」

「は、排水経路の……?」

「ああ。この先に、地上へ通じる管理用の縦坑があるかもしれん」


 カイエン隊長の言葉に、私とレオンハルト様の顔に、ぱっと希望の色が浮かぶ!


「本当ですの!? やっと、このジメジメした地下から出られるかもしれませんのね!」

「よし! 行きましょう、ヴァレンティア隊長! ミレイユ司書!」


 レオンハルト様が、再び元気を取り戻して意気込む。しかし、カイエン隊長は、そんな私たちに冷や水を浴びせるように、静かに続けた。


「……ただし、管理用縦坑は、通常、地上では厳重に施錠されている。そして、この先はさらに狭く、空気も悪い可能性が高い。覚悟はしておけ」


 その言葉に、私の心に灯った希望の灯は、あっという間に豆電球くらいの明るさにまでしぼんでしまった。


「そ、そんな……。やっぱり、簡単には出られないんじゃありませんの……」


 レオンハルト様は、「それでも、進むしかありません! きっと道は開けます!」と、どこまでも前向きだ。そのポジティブさが、今の私には少し眩しすぎる……。


 カイエン隊長は、既に、その模様が示していた方向へと、迷いなく歩き始めていた。


 ああ、もう……。やっぱり、私の平穏な読書ライフは、遥か彼方なのね……。おうちに帰りたい……。暖かいお布団で、ゆっくりと、心ゆくまで本が読みたいだけなのに……。


 私の心の叫びは、地下水路の湿った、そしてやっぱり臭い空気に、虚しく溶けていくのだった。


 (第十七話 了)

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