第16話 地下水路は悪役令嬢の嗜みではない(断じて!)

 頭上からは、騎士団がパン屋に突入する怒号と物々しい音。そして私たちの足元は、カビと何かが腐ったような悪臭が立ち込める、暗くジメジメとした地下空間。……もう、最悪。これ以上ないくらい最悪の状況よ!


「む、無理ですわ……。わたくし、こんな場所、一秒だっていたくありません……。呼吸するだけで、肺が汚染されてしまいそうですもの……!」


 思わずその場にへたり込もうとする私。しかし、その前に、カイエン隊長が無言で私の襟首をひょいと掴み、まるで荷物か何かのように引きずるようにして前進を始めた!


「ひゃっ!? ちょ、離しなさいまし! 人権侵害ですわよ、これは! 大体、わたくしのシルクのドレスがどうなってしまうとお思いでして!?」

「……静かにしろ。声が響く」


 カイエン隊長の、温度の欠片もない声。この人、私のドレスより声の反響を心配するのね! 信じられない!


「ミレイユ司書、お気を確かに! 清潔なハンカチをお使いください! ……あっ、申し訳ありません、私も埃まみれで……」


 レオンハルト様が、必死に私を気遣おうとしてくれるけれど、その手に握られたハンカチは、既に彼の奮闘を物語るように薄汚れていて、全く慰めにならない! むしろ、そのお気持ちだけで十分です、と言いたくなる。


 カイエン隊長は、懐から小さな魔導灯を取り出し、前方を照らした。ぼんやりと浮かび上がるのは、苔むした石壁、ぬかるんだ地面、そして天井からは絶えず水滴が滴り落ちている、まさに「地下水路」といった光景。


「この水路は、かつて古い王城の地下牢に繋がっていたという記録がある。そこからなら、地上へ出られるかもしれん」


 冷静に説明するカイエン隊長。その声には、この不潔極まりない環境に対する嫌悪感など微塵も感じられない。この人、本当に人間なのかしら? 鋼鉄の精神と、あと嗅覚はどうなっているの?


「ち、地下牢ですって!? なぜ、よりによってそんなおどろおどろしい場所へ……! もっとこう、王宮の秘密のティーサロンとか、そういう華やかな場所へは繋がっていないのですか!?」

「……お前は黙ってついてくればいい」


 私の必死の訴えは、カイエン隊長によって一刀両断。ああ、もう!


「ヴァレンティア隊長、本当にこの道で安全なのですか? ミレイユ司書のご負担もかなりのものかと……。何か他の経路は……」


 レオンハルト様が、騎士道精神からか、あるいは純粋な同情からか、カイエン隊長に進言する。しかし、返ってきたのは、氷のように冷たい一言だった。


「他に選択肢があるか? それとも、お前が騎士団を説得して、我々を丁重に図書館へ送り返してくれるとでも?」

「ぐぬぬ……そ、それは……」


 正論(?)で返され、レオンハルト様も押し黙るしかない。ああ、私の味方はどこにもいないのね……。


 と、その時だった。ぬかるんだ地面に足を取られ、私は見事にバランスを崩し、派手に泥水の中へダイブ!


「きゃーーーーーーーーっ!!」


 本日何度目かの悲鳴。そして、ついに、私の愛するシルクのストッキングと、お気に入りの革靴が、見るも無残な泥まみれに……!


「もういやぁぁぁぁ! 私の! 私のオシャレがあぁぁぁ! こんなことなら、もっと実用的で、泥に強い、そう、農作業用の長靴で逃げるべきでしたわ!」


(……いや、それはそれで悪役令嬢としてどうなのよ、私!?)


 内心で激しく自分にツッコミを入れながら、泥水の中で涙目になる私。もう、美しさも何もあったもんじゃない!


 さらに追い打ちをかけるように、カサカサカサッ、と壁際を何かが素早く這う音が! そちらに目を向けると、私の親指ほどもある、黒光りする巨大な……虫!


「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!! む、虫! 虫ですわ! 無理無理無理! 悪役令嬢は、か弱いので虫が大大大大の苦手なんですのよぉぉぉぉ!」


 本能的な恐怖に突き動かされ、私は一番近くにいたカイエン隊長の腕に、それこそ蝉のようにしがみついた!


「……おい」

「いやぁぁぁ! 取ってくださいまし! アレを! アレをどうにかしてくださいましぃぃぃ!」


 カイエン隊長は、迷惑そうに(しかし、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、その無表情な顔に困惑の色が浮かんだように見えたのは、私の気のせいかしら?)私を引き剥がそうとする。


「……静かにしろ。ネズミが驚いて飛び出してくるぞ。もっと大きいやつがな」


 ボソリ、と呟かれたその言葉に、私の動きがピタリと止まった。


「ひぃっ! ね、ネズミ……!? しかも、もっと大きいの……!?」


 顔面蒼白。虫よりネズミの方がまだマシ……いや、どっちも嫌だけど! 想像しただけで卒倒しそうだわ! 私は必死で口を押さえ、カイエン隊長の背後に隠れるようにして、周囲をキョロキョロと見回す。


 その私の怯えっぷりを見ていたカイエン隊長の口元に、ほんの一瞬、本当にごく僅かだが、笑みの影がよぎったような……? いや、まさかね。この鉄仮面にそんな人間らしい感情があるはず……。


 しばらく進むと、道が二手に分かれている場所に出た。


「ど、どっちですの!? こちらですの!? それともあちらですの!? まさか、間違った方を選ぶと、大量のネズミの大群が襲ってくるとか、そういう古典的なトラップはございませんでしょうね!?」


 完全にパニック状態の私。カイエン隊長は、そんな私を一瞥すると、地面に残された僅かな痕跡や、空気の微妙な流れを慎重に調べている。


「……こっちだ」


 やがて、彼は一方の通路を指さした。


「な、何か根拠がおありで!? まさか、適当に選んだわけでは……」

 レオンハルト様が、不安そうに尋ねる。


「勘だ」


 カイエン隊長の、あまりにも簡潔すぎる答え。


「か、勘ですってぇぇぇぇ!? そ、そんな無責任な! わたくしたちの命がかかっているのですよ!?」


 私の悲鳴に近い抗議も虚しく、カイエン隊長は既に、彼が選んだ道を進み始めていた。レオンハルト様も、不安そうな顔をしつつ、それに続くしかない。


 ああ、もう、どうにでもなれ!


 カイエン隊長が選んだ暗い通路を進む。しかし、その先から、何やら……チャプチャプという不気味な水音と共に、獣の低い唸り声のようなものが、微かに、しかし確実に聞こえてくるではないか……!


「……い、今の音、何ですの……? ネズミ……じゃないわよね……? もっと大きくて、歯が鋭くて、人間を主食にしてそうな……そういう感じの……」


 私の顔からは、完全に血の気が失せていた。


「黙って進め」


 カイエン隊長の、いつも通りの短い指示。もう、この人に何を言っても無駄だわ……。


 果たして、この薄暗く、臭くて、不気味な音までする地下水路の先に、私たちの(特に私の)平穏な未来は待っているのだろうか!? ……無理よね、きっと。もう、本が読めれば何でもいいわ……(半分以上本気)。


 (第十六話 了)

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