第11話 夜の終わりと彼女の理由
風のまつりの夜が、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
あの黒い魔物が現れた瞬間、町は一気に騒然とした。
逃げる声、押し合う人波、悲鳴と鐘の音が入り混じって、ぐちゃぐちゃになった。
けれど、その混乱も長くは続かなかった。
あれだけの存在が現れたにもかかわらず、建物は無傷で、誰一人傷ついていなかった。
気づけば、魔物の姿は消えていた。
それだけのことで、人々の不安は急速に安心へと変わっていった。
「神の加護だ」「還り人の奇跡だ」
誰かが言った言葉に、周囲がうなずき始める。
……都合のいい納得のしかた。でも、きっとそれでいいんだろう。
俺の中に残ったのは、むしろ拭えない違和感だった。
「……あたし、ちょっと風に当たってくるね」
そんな声がして、エラが宿の前から離れていった。
ふわっと笑って、でもほんの一瞬だけ視線を外す。
ああ、気づいてるんだな、と思った。
何かを察して、俺とリィナに時間をくれたんだ。
あの子は――やっぱり、いい子だ。
「いい子ね、ほんとに」
リィナもぽつりと同じことを口にした。
俺が振り返ると、彼女は階段の端に腰を下ろして空を見上げていた。
すこしだけ、疲れたような表情をしていたのが印象的だった。
「……ちょっと、話してもいい?」
「もちろん」
俺も隣に腰を下ろす。夜風が、少し肌寒い。
でも、それが妙に心地よかった。
「わたし、王都ヴァルトリアにあるギルドの家の娘なの」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
なんだったか……どこかで聞いたような響き。
けれど、思い出せるほどの確かな記憶は残っていない。
「……王都か。なるほどな」
そう返しながらも、胸の内にさざ波のような感覚が残った。
リィナは、少し間を置いてから話しはじめた。
「わたしの祖父がね、還り人の話をしてくれてたの。“本当にいたんだ”って。
誰にも信じてもらえなかったけど、わたしだけは、その話が好きだった」
目を伏せるように笑う彼女の顔は、どこか照れくさそうで、それでいて懐かしむような優しさがあった。
「それで、ギルドでいろいろ調べてた。古い記録とか、伝承とか……
でも、はっきりしたものなんて、どこにも残ってなかった」
夜風が、少しだけ強く吹いた。
どこかから祭りの匂いがかすかに漂ってくる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、辺りは静まり返っていた。
「それでも、わたし、ずっと探してた。
本当はね、還り人そのものじゃなくて――」
リィナの目が、夜空を見たまま動かない。
「……誰かのために立ち上がる、そんな人のことだったのかもって、最近思うの。
わたし、そういう背中が、好きだったんだと思う」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
俺はなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。
ただ、彼女の声だけが、心に染み込んでいった。
しばらくして、リィナがこちらを見た。
なにか、決心するように小さく息を吸って――
「ねえ……シン。あなたって、もしかして――」
……けれど、その続きを言うことはなかった。
目を伏せて、すぐにかすかに笑って首を振る。
「……ううん。なんでもない。ごめんね、変なこと言った」
「……いや」
それだけを返す。余計な言葉は、要らなかった。
俺の声はきっと、リィナにも届いていたと思う。
ふと、小さな足音が聞こえた。
「ふたりとも、まだ寒くない?」
エラが戻ってきた。にこにこと笑いながら、でもその目は、まるで全部見ていたかのように優しかった。
「……そろそろ、戻ろうか」
そう言って立ち上がると、ふたりが静かにうなずいた。
灯りが消えた広場を背に、俺たちは宿へと戻る。
遠くの空に、まだひとつだけ残っていた灯が、ゆっくりと風に流れていった。
何かが終わって、そして、何かが始まろうとしている。
そんな気がしていた。
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