第12話 風の後、静かな朝
あの夜から、数日が過ぎた。
町は、思っていたよりずっと早く、いつもの顔を取り戻し始めていた。
そのあいだ、シンたちは町の外れにある小さな宿に滞在していた。
宿代の代わりに、朝はシンが水を汲み、リィナが薪を割り、エラが皿を拭いていた。
特に決めごとがあったわけではなかったが、気づけば、それぞれが自然に体を動かしていた。
ある朝、エラが少し得意げに、ふき終えた皿をテーブルに並べていた。
宿の女将が「ありがとうねえ」と笑いながらそれを受け取り、エラも小さくうなずいていた。
森で倒した魔物の、焦げたような木の枝――
あのとき何気なく拾っていた一片を、シンが細工屋に持ち込んだところ、意外な反応が返ってきた。
「この質感……アクセサリーの細工に使えるかもしれないね」
「えっ、これが?」
まさか、折れた枝一本が銀貨二枚に化けるとは思っていなかった。
ただのごみかと思っていたそれで、保存食や簡単な地図を買いそろえることができたのだから、
世の中は分からない。
そんなふうにして、三人は小さな日々を積み重ねていた。
それは、ささやかだけれど確かな時間だった。
――そして、今朝。
風が静かに吹き抜けていく。宿の前に立ったシンは、どこか遠くを見ていた。
リィナの姿はもうない。旅立ちは告げられていたから、驚きはなかった。
それでも、何かが心にぽつんと残る。
「……行ったんだね」
背後から、エラの小さな声がした。
部屋の扉を半分だけ開けたまま、彼女は少しだけ顔を出して、シンの背中を見ていた。
「うん」
シンは短く返す。
風の音にかき消されそうなほど、静かな声だった。
エラは扉から出てきて、シンの隣に並ぶ。
空を見上げながら、ぽつりと言った。
「なんだか、ちょっとだけ……さみしいね」
シンはその言葉に、ふっと口元を緩めた。
「そっか」
エラはうなずきながら、でもすぐに笑った。
「でもね、わたし、前より少しわかってきた。出会って、一緒に歩いて、そして別れて……。そうやって、旅って続いていくんだね」
それは、誰かに教わったわけじゃない言葉だった。
けれど、きっとリィナと過ごした日々が、彼女に教えてくれたことなのだろう。
(……思い返せば、昨夜のことだ。)
部屋の片隅で荷物をまとめながら、リィナは少し迷ったように口を開いた。
「明日の朝には出るよ」
その言葉に、エラは少し寂しそうに「そっか」とうなずいていたけれど、シンは黙っていた。
ただ、去りゆく者の背を見送るような、静かな視線を向けていた。
リィナはそれを横目に見ながら、言葉を続けた。
「もし、王都ヴァルトリアに行くことがあったら――うちのギルドを訪ねてみて」
「ギルド?」
「《トライアクト》って名前。町の中心街にある、大きな建物だからすぐわかるよ」
そこでリィナは一度言葉を切り、少しだけ、顔を上げた。
そして、ためらいがちに、でもはっきりと続けた。
「それでね、親父にこう伝えて,“最初の火は、まだ消えていない”って」
「それが、合言葉?」
「うん。うちでは、それがいちばん古くて、大事な言葉なんだ。親父なら……きっと、それで分かると思うから」
シンはしばらくその言葉を胸の中で転がし、うなずいた。
リィナは少し黙ったあと、ふっと笑って、ぽつりと続けた。
「……あんたたちと旅できて、よかったよ。ほんの少しだったけど、あたしにとっては――ちゃんと、大事な時間だった」
「ありがとう。ほんとに」
---
そうして、朝が来た。
風がまた吹く。今度は、どこかへ背中を押すようなやさしさを帯びていた。
(……それでも、進む先がどこなのか、今はまだ定まっていない)
そう思っていたはずだった――が、思い出した。 昨夜、リィナがふと漏らしたひとことを。
「あの城――ヴァルトリアの王城って、建てられてからずっと形が変わってないらしいよ」
その言葉に、シンの中で、かすかに揺れるものがあった。
自分の記憶のどこかで、いつ見ても変わらなかったあの城。
まるで時の流れに取り残されたような、不思議な存在。
(……王都に行けば、何かが分かるかもしれない)
「さて――」
シンは腰に下げた小さな袋を確かめ、背中の荷を軽く整える。
「そろそろ、俺たちも行くか」
「うん。王都、ヴァルトリア……だよね?」
エラは言葉の響きを確かめるように繰り返し、にこっと笑った。 その笑顔に、シンもつられて少しだけ口角を上げる。
風がまた吹いた。目指すべき場所を、そっと押してくれるように。
二人は静かに歩き出した。 目指すは、王都――《ヴァルトリア》。 “最初の火”が、まだ消えずに灯っているかもしれない、その場所へ。
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