第10話 黒き影を見上げて

ふたりで歩き出した通りは、先ほどよりも人の波が増していた。


太鼓の音、屋台の呼び込み、焼き菓子の甘い香り――祭りの空気は確かに、そこにあった。




「……エラ、あのあたりにいたかな。ほら、あの屋台の近くの……」




リィナが言いかけた、そのとき。




音が、消えた。


一瞬だけ、風の流れすら止まった気がした。




そして――空が、陰った。




「……っ、何……?」




リィナが小さく息を呑む。


彼女の視線を追うように、俺も空を仰いだ。




高く、広がる青の上に、黒い影。


巨大な何かが、空を旋回している。


その形は、あまりにもはっきりとした輪郭を持っていた。




角、尾、うねるような翼。ドラゴン……


それを見た瞬間、頭の奥底に、ひやりと冷たい何かが落ちた。




(……知ってる。どこかで、確かに)




ただの既視感じゃない。


脳が、それを知っていると告げていた。




広場の方から、ざわめきが広がる。




「な、なんだあれ!?」


「隠れろ! 子どもを――!」


「魔物だ! 上に魔物がいるぞッ!」




誰かの叫び声が引き金になったように、通りが一気に混乱に包まれた。


人々が走り、悲鳴が飛び交い、屋台が倒れ、布飾りが宙を舞う。




俺はその混乱の中心で、ただ一点――空の黒い影を見つめていた。




(森でも、あのとき抑制が効かなかった。あの木の化け物……。まさか、今も……?)




掌に汗がにじむ。


スキルは常に発動している。魔物との遭遇は、極限まで抑えられているはずだった。


けれど、こいつは――まるで、関係ないかのように現れた。




(また、かよ……)




空を舞うその影が、ゆっくりとこちらを向いた。




目が合った――気がした。




睨まれたような感覚。


本能が、告げてくる。


あれは、敵意を持っている。


いや、それ以上に――“見ている”。試すように、探るように。




(来るのか?)




脈が跳ね上がった。




けれど、次の瞬間。


俺はただ、一歩前に出て、空を見据えた。




言葉は要らない。力も使わない。


ただ、心の奥にある「これ以上は来るな」という意志を――無言で放った。




風がうねった。




視界の端で、布がはためき、倒れた屋台の上に砂埃が舞う。




そして。




空の黒き影が、羽を強くはためかせた。




旋回をやめ、風を裂いて上昇し――そのまま、遠くへと消えていった。




「……あれ……今の、なに……?」




リィナの声が震えていた。


広場の混乱は続いていたが、空から危機が去ったことに気づいた住人たちが、徐々に動きを止め始めていた。




「戻った……? 魔物が……去った……?」


「……誰かが倒したのか?」


「いや、攻撃なんてされてない……勝手に逃げた?」




そんな声が、あちこちから漏れ聞こえてくる。




俺の周囲には、誰もいなかった。


けれど、ひとりだけ――リィナだけが、俺を見ていた。




彼女の視線が、俺の横顔に向けられているのが分かった。


その目には、確かな“疑問”と“確信になりかけた何か”が混ざっていた。




「さっき……何をしたの?」




問いかける声は、静かだった。




俺は答えなかった。


ただ、空をもう一度見上げて――小さく息をついた。




(この世界で……何かが起きている)




そう思った。


理由も根拠もない。ただ、皮膚の下を這うような違和感が、確かにそこにあった。


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