第2話 年上の少年
新緑の梢を揺らし、雨上がりの薫る風が、晴れた青空から広間へと吹き寄せる。かすかしっとりと露を絡めたその指先が、髪を結い上げた千依の白いうなじをくすぐるように撫でていった。開け放たれた雪見障子から続く
眩く彼女の周りを彩る初夏の煌めき。だが、千依の澄んだかんばせは、笑顔も忘れて、ぶすりと不機嫌に黙り込んでいた。原因は、目の前で腹を抱えて笑う少年花婿だ。
「いや、本当に、君、なにも聞かないで俺と結婚しにきたんだ?」
噛み殺しきれない笑いをこぼして、幼い双肩は震える。声はまだ甲高い少年のものだが、しゃべり方には穏やかな落ち着きがあり、態度も千依よりはるかに大人びていた。むしろ見た目に反し、取り乱した千依をからかうような、ちょっと嫌味な余裕さえ感じられた。
「申し込んだ縁談話に、いやに返事が早いとは思ったんだけどね。よっぽどそちらは切羽詰まっていたらしい。あ、俺が
「それぐらいは、縁談受けた時から当然分かってます! というか、そうじゃなきゃこの結婚、意味がないじゃないの」
幼子に尋ねるような口調で確認をされた。子ども相手に。思わず千依は唇を尖らせた。これで無垢な空気ならば可愛げもあるが、ニッコリ笑顔には明らかな揶揄が混じっている。やりきれない憤りに、丁寧に話すべきなのか、そんな敬意など不要な相手なのかも測りかね、返す言葉遣いも乱れてしまう。
だがそんな千依の様子を気にした素振りもなく、少年はしみじみと彼女の不貞腐れた顔を眺めやった。
「君……本当にツガイを得ることしか頭になくて、この結婚受けたんだねぇ。婿に来たのが俺みたいな顔の良くて優しい男じゃなかったら、困ったことになってたんじゃないの?」
「たとえもし、あなたが言葉どおり顔が良くて優しかろうと、どう見てもお子様なんで、まさしくいま困ってるわよ」
至極当然といった少年の自己認識に、つっけんどんに千依は返した。性格は現段階ですでにはなはだ疑わしいが、見目ばかりは確かに自負どおりだ。が、婚姻適正年齢に達しているという前提が崩れた有様で、なにを言うのかと思ってしまう。後ろに控えた媒酌人の祖母が、困ったような空気を湛えているのには気づいているのだが、どうにも柔らかには答えられなかった。
しかし少年は、「わぁ、本当に他情報ゼロで結婚に頷いちゃったんだぁ」とおかしげに笑った。まさしく言い返しようなくその通りなのだが、悠然とした様が癪にさわる。
「安心してよ。こう見えても俺は君よりずっと年上だよ? 妖だからね。見た目に惑わされるとは、俺の花嫁はずいぶん素直で可愛らしいようだ」
あどけない声音に、相変わらず意地悪な含み。くつろいだ胡坐に足を組み、膝がしらに頬杖をついて、少年は笑う。その弾みで肩口まで伸びた金色の髪が、差し入る陽光にさらりと揺れた。青い瞳で木漏れ日が溶けて閃く。黒い髪、黒い瞳の千依と真反対な華やかさ。それは確かに、妖の証だった。いまでこそ他国に似た髪色や瞳の人間もいるかもしれないが、やはり、彼らのそれとは色彩の明度が違う。それに妖には、銀の髪や赤の髪、金の瞳や緑の目を持つ者も存在した。そして人間よりも数が少ない代わりに、彼らはとても長命だった。とはいえ――
「妖だって、青年期までは人と同じ速度で成長するでしょう?」
つまり、人間だろうと妖だろうと、彼は少年の齢のはずなのだ。
そもそも妖とは、この世界の裏側――異界に住まう、人と対となる別存在だ。
この世は最初、天と地に分かたれたそのあとに、表と裏に分離した。表が千依たち人間の住まう世界。裏が少年たち妖の住まう世界だ。世界が裏と表に分かたれる前、天の神とその眷属が表の人間の祖となり、地の神とその眷属が裏の妖の祖となったといわれている。
ゆえに、妖と人は、同一にして表裏。人と限りなく近くありながら、まったく異なる性質を持っていた。
限られた人間しかもたない鎮めの霊力と真反対の力――荒ぶる力たる妖力をほとんどの者が持ち得、髪や瞳の色の他にも、多くが人とは異なる身体的特徴を有していた。例えば、獣の耳や尾があったり、腕や足の数が多かったり。
とはいえ、妖が人の世へと渡る際に、そのほとんどの特徴はそぎ落とされてしまうので、いま目の前にいる少年も、髪や瞳以外は人間と変わらなく見えはするのだが。
本来交わるはずのないふたつの世界は、境界たる日ノ本ではたやすくその境目が揺らぎ、ぶれる。ゆえに、ふたつの世界はこの国においてのみ、行き来が出来るのだが、裏表の存在とはいえ互いに異界。そのため、異界を訪れた者には、それなりのデメリットが生じた。妖の場合は、その力が人間界では弱まり、威力を保てなくなってしまう。だから姿も人間に近づくのだ。人間の方は、妖の世界に迷い込んだ場合、決して自力では人間界に戻れず、妖の世の
「まあ……確かに、普通なら君の言う通り、青年期まで人と妖の成長速度は同じだけどね。俺はちょっと特殊っていうか……。本当になにも聞かずに結婚しようとしてるね? 君のおばあ様は事情知ってるはずなんだけど」
「そっ……れは、その、色々聞いて、気持ちが揺らぐのが怖かったというか、勢いでなんとかしたかったというか……」
やや呆れた調子の少年に、もごもごと千依が口ごもれば、彼は深くため息をついて、媒酌人の千依の祖母を振り向いた。
「俺が言うのもなんだけどさ、お孫さん、止めてやった方がよかったんじゃないの? 並みの契約じゃなくて、結婚だよ?」
「せめて最善を……と思ったのですよ。他のどなたかとツガイとなるよりは、あなたである方が、よきようにしてくださるかと……」
「……どうかなぁ。まあ、そちらと顔見知りのよしみで無体は働かないつもりだけど、君たち人間の良きようと、俺たち妖の良きようが、同じ価値観とは限らないからね」
八の字の困り顔に祖母がまるい眉を寄せれば、少年はどこか冷たく細い肩をすくめた。どうやら祖母と少年は多少知った仲であるらしい。見た目はむしろ二人の方が千依以上に孫と祖母だが、言動は確かに、少年の方が年長者然としていた。
「と、ともかく、あなたがちゃんと年上なのは分かりました! 分かったから、早くツガイの婚姻契約を結びましょう!」
祖母と少年の間に漂った、なんとも微妙な躊躇いの空気に、千依は慌てて割っていった。この婚姻の話を、なかったことにされては困ってしまう。
(駄目、絶対、駄目。私には力が必要なの。今すぐにも、必要なの――!)
ひっそりと、千依は震える拳を握りしめた。
「あなたとツガイになれば、霊力殺しの私でも、ナナシノウロを封じられる
勢いのまま、前のめりに千依は尋ねる。そのまっすぐ貫き刺すような黒い瞳に、ふっと淡く少年の唇はゆるんだ。
「ああ、そうだよ。それは間違いなく保証しよう。ただし知ってのとおり、結婚してツガイとなった場合だけ、だけれどね」
〈ツガイ〉とは、互いを対とする契約を結び合った人間と妖のことだ。
境界の曖昧なこの日ノ本には、太古からある異形が生まれた。この世の狭間に生れ落ち、ふたつの世界を脅かす厄災。ナナシノウロと呼称されたその禍事は、人間の世界にも妖の世界にも害を成す、どちらの世界にもあってはならない存在だった。
それを封じるために、
ナナシノウロを封じるには、人の持つ力と、妖の持つ力。そのふたつが必要だったからだ。
ナナシノウロを封印できるのは、人の持つ鎮めの霊力だけ。だが封印のためには、ナナシノウロの力を削ぐ必要がある。それは霊力よりも、戦いに向いた荒ぶる妖力の方が適していた。
しかしそこにひとつ問題が生じた。ナナシノウロは、まず人間界に現れる。人間界を荒らし、力を溜め、御しきれないほど強大になってから、妖の世を貪る。それがナナシノウロの習性であった。ゆえに力をつけきる前に、人の世で封じる。それがナナシノウロ退治の鉄則であった。
だが人間界では、異界渡りの制約により、妖は思うように力を揮えない。その弱体化してしまう部分を補うのが、ツガイの存在だった。
妖とツガイの契約を結んだ人間は、人の世での妖の寄る辺となる。ツガイが、妖という異界の存在を、人間世界の者として結びつける楔となるのだ。
そうして、ツガイを通じて人の世の存在として認められた妖は、裏側と同じ力を人間界でも揮い、ナナシノウロと対峙することが出来た。
人と妖が、陰陽のごとく
だが、結婚によるツガイ同士にしか齎されない力が、あるのである。
古にこのツガイ契約の祖となったもの――最初にツガイとなった者たちが、婚姻という形をとり、契約の礎をきずいたためだ。契約の本質は、言葉と儀式による誓い――縛りであり、呪術だ。ゆえにいまもなお、最初の
だから、異端の霊力を持つ千依が
「あなたと結婚してツガイとなるために、私はここに来たの」
千依はすっと居住まいを正した。華やかな振袖の袂を
「あなたが申し込まれた婚姻、お受けしました。だから、私と夫婦になってください」
夫婦になる――その言葉が、なにを意味するのか分かっている。たとえ本来は年上なのだろうと、こんな子ども相手にと、恐れも引け目もある。けれど千依は、力を手に入れるこの好機を逃すわけにはいかないのだ。
この先に――夜に、待ち受けていることを思って震えそうになる指先を叱咤する。凛然と挑みかかる千依の気迫に、しばし黙していた幼い唇は、やがて涼やかな声音で甘く笑った。
「そう。じゃあ、君のその承諾、ちょうだいするよ。今宵から儀式を始めよう。俺はこの広間に間借りするけど、今夜から三日、夜はちゃんと君の部屋に通っていくから――」
膝を寄せ、するりと距離が詰められる。まだ千依よりひとまわり小さな掌が、畳についた彼女の左手を取り、指先でそっと薬指をなでた。
「いい子で待っていてね」
額が触れそうな距離で柔らかに告げる。あどけない、少年の微笑み――そのはずなのに、昼の陽だまりのうちでも、それは妙に艶めいて見えて、奥の方から心臓をいやな速度で急き立てた。やり場のない気恥ずかしさがこみあげてきて、応える言葉を失う。その動揺を悟られないように、千依は小さく唇を噛んで、彼の笑みをやり過ごすしかなかった。
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