契約ツガイの虚退治
かける
第一章 仮初の婚姻
第1話 対面
毎年、藤の花の季節になると千依は思い出す。濃紺の着物の袖に、清涼な花の香をひるがえした黒髪の少年を。泣いている彼女の前に現れた、彼のことを――。
九つを迎える年の初夏だった。祝宴ににぎわう母屋から離れた別棟。その中庭にたたずむ藤の木の根元にうずくまり、千依は必死に涙をぬぐっていた。祝いの席でしか出会わぬ大人の心無い言葉。それに胸を刺されて耐え忍んでいたのだ。
その背に、彼は声をかけてきた。祝宴に呼ばれた客の子息のひとりだったのだろう。が、良くは覚えていない。一度も会ったことのない――ただとても、綺麗な少年だった。
肩口で揺れる少し長めの射干玉色の髪が、藤の花灯りの中で艶やかに煌めいて、千依は泣きぬれた顔で、呆けて彼を見上げるだけしかできなかった。そんな彼女に、少年はひとつ小さな贈り物をくれたのだ。
金色の綺麗な鈴。それは木漏れ日を掬い取ったかのような、柔らかな光の色をしていた。
(いまさらに思えば、あれは――)
きっと初恋だった。気づく前に、朝置く草葉の露のように、溶け消えてしまったが。
あれ以来、その少年に会うことはなく、声の記憶は消え、顔立ちも朧になってしまった。けれどもらった鈴を、千依ずっと身守りとして持ち続けていた。
それはいままさにこの時であっても、千依の胸元にひそめられている。
(なんだか……未練がましい気もするのだけれど)
初恋が叶うなんて、夢見る年でももうない。それに今日がどんな日かを考えれば、持っているべきではない品だと分かってはいる。
千依は今日、結婚するのだ。初めて会う、見ず知らずの相手と。愛も恋も、ないままに――。
祝祭とはほど遠い、わびしい静けさが包む廊下を、千依は俯いて進む。広い広い邸宅内は、家の者だけでなく使用人も多く行き交うが、この別棟にはそんな人影もない。見慣れた自分の邸の内なのに、見知らぬ場所へ迷い込んだような心地がした。
伏せた長い睫毛が、千依の大きな黒い瞳に薄く影を落とす。真白い肌も顕わな細いうなじを、皐月の風がなでていった。結い上げた髪の上で、簪飾りがしゃらりと鳴る。振袖の長い袂が、千依の心持ちを代弁するかのように重たく揺れた。柔らかな生成り色に、七宝や百花、束ね熨斗が鮮やかに染め抜かれた、華やかな振袖だ。だがいまはその鮮やかさが逆に、硬い千依の表情を、よけい暗く際立たせてしまっていた。
そんな千依を気づかわしげにうかがいながら先導してくれるのは、この突然の結婚の媒酌人をかって出てくれた、祖母の小さな丸い背中だ。
此度の婚儀の席に出る者は、祖母と花嫁の千依、そして――まだ見たこともない花婿だけだ。
結婚とは名ばかり。仮初に夫婦の関係となるだけなので、最低限、契約に必要な人間だけしか集まらないのだ。なんて寂しい、結婚式であろう。
(白無垢……ちょっとだけ、着たかったな)
熱烈にではないが、少し憧れはしていた。美しい花嫁衣裳や、それに寄り添ってくれる好きになった相手。家族や友人に祝福された、晴れの宴。
けれど千依を待ち受けているのは、それとは真逆の心通わぬ契約だけの結婚だ。軒先からかすか差し入る初夏の煌めきだけが、物寂しさを和らげてくれる――そんな婚儀だ。
(自分で選んだことなのに……情けない)
千依はぐっと俯いていた顔を上げた。名ばかりの結婚と知りながら、この話に二つ返事で頷いたのは、他ならぬ千依自身なのだ。
この婚姻を通して、どうしても、手に入れたいものがあったから――。
(〈
それが、千依にはなにを賭してでも欲しいものだった。
千依の暮らすこの日ノ本は、表向きには海の外に広がる他の国々と変わらない普通の国だ。電車が走り、飛行機が飛び交い、電子の海の半仮想空間ではアイドルが踊る。
けれど、一部の関係者しか預かり知らぬ事なのだが、この国は人がこの世で営みを築き始めたその頃から、境界に位置する地だった。この世とあの世を繋ぐ、霊的にとても不安定な場所。それが、日ノ本なのだ。
それゆえこの国には古くから、特別な力を持つ人間が生まれついた。
その血脈の内でも、千依の生まれついた
だから、祖母や亡き父、母や兄は違ったが、それ以外の血族や他の
なぜなら千依の霊力は、あまりに異質だったのだ。
(霊力殺しの神子……)
千依の封印の力が発揮されるのは、他者の霊力に対してだった。仲間の力を殺してしまうのでは当然、役立てるはずもない。むしろ無力であった時以上に、その異様な性質は忌避され、他の
(でもこの婚姻を結べば、私も
鬼でも蛇でも、嫁していい。その覚悟で、千依は二つ返事で花嫁になることを承諾したのだ。だからいまさら、後悔などない――はずなのだ。
先行く心配げな祖母に、千依は微笑みを浮かべてみせた。ぎこちなく映っていてなければいいと、願いながら。祖母は役立たずの千依を大事に可愛がってくれた家族のひとりだ。そんな祖母に、憂いた顔をさせ続けてしまうのは本意ではない。家族のために役立ちたくて、千依は力を望んだのだから。
だから千依は、笑みとともに見知らぬ花婿と相まみえようと決意していた。心配をかけぬように。そのはずだった。そのはずだったのだ、けれど――
「えっ……」
花婿の待つ、別棟の広間。そこの障子を祖母が開いた瞬間。千依の取り繕った笑みは、驚きと困惑に吹き飛んだ。
「あの、まさか……結婚相手って、こんな……子ども?」
愕然とした千依の声が、真新しい
そこには、少年がいた。机や椅子などの調度はなく、ただ広いだけその中に、座布団に座り、古めかしい脇息に慣れた様で腕を預けてくつろいで。
もちろん、千依の記憶に残る着物姿の黒髪の少年ではない。出で立ちは着物ではなく、ずいぶんと砕けたカットソーと七分丈パンツ。華奢な肩口でさらりと揺れるのは、月明かり色の金糸の髪。子どもらしく大きく、けれど凛と切れ長な瞳が、千依を見上げて笑みに細められている。露草の花のような鮮やかな澄んだ青だ。雪に紛える山桜のような淡く儚げな美しさは、幼いというのに目を奪うものがあった。だがどう見てもまだ、十歳程度。ランドセルを背負っていてもおかしくはない年頃だ。これが花婿では、十九の千依は相当な姉さん女房になってしまう。いや、それよりも、こんな子どもと夫婦として契っては――
「わ、私、犯罪者になっちゃわない⁉」
たまらず叫んだ声に、少年が楽しげに吹き出した。
かっこん、と、広間から臨める中庭の方の向こう。鹿威しの音が小気味よく響いて消えていった。
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