第3話 発覚

 夏休みに入り、菜々美と過ごす時間は増えた。照りつける太陽の下、蝉の声が降り注ぐ中でのデートは、僕にとってかけがえのない宝物だった。しかし、その一方で、僕の心の闇は、夏の強い光に晒されるように、より濃く、隠しきれないものになっていった。


 図書館での勉強中、ふと気づくと、僕はテーブルの下で揺れる菜々美のサンダルから目が離せなくなっていた。華奢なストラップ、ペディキュアが施された爪先、そして、床との間にわずかな隙間を作る、その靴底。彼女が足を組み替えるたびに、サンダルの底が床を擦る微かな音が、僕の耳にはやけに大きく響いた。


「ねえ、さっきから何見てるの?」


 菜々美の声には、少し尖った響きがあった。はっとして顔を上げると、彼女は怪訝そうな表情で僕を見つめていた。


「え? ああ、いや、なんでも……」


「なんでもなくないでしょ。最近、変だよ。私の足元ばっかり気にしてるみたいだし……この前のスマホの時もそうだったけど、何か隠してるんじゃないの?」


 核心を突く言葉に、心臓が凍りつく。菜々美の真っ直ぐな視線が痛い。もう、誤魔化しきれないのかもしれない。観念した僕は、重い口を開こうとした。しかし、その時、僕のカバンから、一冊のスケッチブックが滑り落ちた。それは、僕が誰にも見せずに、密かに自分の衝動を描き留めていたものだった。慌てて拾おうとする僕より早く、菜々美がそれを手に取った。


「これ……何?」


 パラパラとページをめくる菜々美。そこには、靴、足、そして、花や虫が踏み潰される瞬間を、執拗なまでに詳細に描いた鉛筆画が並んでいた。菜々美の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。彼女の手が、小刻みに震え始める。


「……どういうことなの、これ」


 絞り出すような声。僕は、もう何も言えなかった。ただ、俯いて、床の一点を見つめることしかできない。スケッチブックが、音を立てて床に落ちる。


「答えてよ!」


 菜々美の叫び声が、静かな図書館の自習スペースに響いた。周囲の視線が一斉に僕たちに集まる。僕は、菜々美の手を取り、半ば強引に図書館の外へ連れ出した。


 近くの公園の、人気のない木陰。蝉の声だけが、やけに騒がしく響いていた。


「ごめん……」


 それしか、言葉が出てこなかった。


「ごめん、じゃなくて! 説明して! あれは何なの!? あなた、まさか……そういう……趣味があるっていうの?」


 涙声で問い詰める菜々美。彼女の瞳には、信じられないものを見るような色と、深い戸惑い、そして、明らかな嫌悪感が浮かんでいた。


 僕は、もう隠し通すことはできないと悟った。そして、堰を切ったように、全てを話し始めた。自分がマゾヒスティックな傾向を持っていること。女性の足、特に靴に強く惹かれること。そして、最も告白し難い、花や虫が踏み潰される光景に、倒錯した興奮を覚えてしまうこと――クラッシュフェチという、自分でも忌むべき性癖を持っていることを。


 涙ながらに、途切れ途切れに話す僕の話を、菜々美は黙って聞いていた。最初は激しい嫌悪感を示していた彼女の表情は、次第に悲しみと、どうしようもない戸惑いの色に変わっていった。


「……最低」


 ぽつりと、彼女は呟いた。その声は、怒りよりも、深い悲しみに満ちていた。


「今まで、あなたが私の足元を見ていたのは……そういう目で見てたってこと? 私が、気づかずに何かを踏んじゃった時も……あなたは、それで……喜んでたの?」


 僕は、何も答えられなかった。肯定も、否定もできなかった。


「信じられない……気持ち悪い……」


 菜々美は、そう言って僕に背を向け、泣きながら走り去ってしまった。僕は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。蝉の声が、やけに虚しく響いていた。終わった。僕たちの関係は、僕の醜い秘密によって、完全に終わってしまったのだ。絶望感が、全身を冷たく蝕んでいった。


 それから数日間、菜々美からの連絡は一切なかった。学校も夏休みに入り、彼女に会う機会もない。僕は、自室に閉じこもり、ただただ後悔と自己嫌悪に苛まれていた。なぜ、あんな性癖を持って生まれてきてしまったのだろう。なぜ、それを菜々美に知られてしまったのだろう。いっそ、このまま消えてしまいたいとさえ思った。


 一週間ほど経った、ある日の夕暮れ。スマートフォンの着信音が鳴った。画面には、「大島菜々美」の文字。心臓が激しく高鳴る。震える手で通話ボタンを押した。


「……もしもし」


「……私」


 電話の向こうから聞こえてきたのは、力なく、掠れた菜々美の声だった。


「会って、話せる?」


 指定されたのは、あの公園だった。夕暮れの光が、ブランコや滑り台をオレンジ色に染めている。ベンチに座って待っていると、少しやつれた様子の菜々美が現れた。彼女は、僕の隣ではなく、少し離れた場所に、ゆっくりと腰を下ろした。


「……色々、考えた」


 菜々美は、俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。


「あなたのこと、最低だと思った。気持ち悪いとも思った。今でも、正直、完全には理解できない……ううん、理解なんて、できないのかもしれない」


 僕は、黙って彼女の言葉を聞いていた。


「でもね……」


 菜々美は顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、少し潤んでいた。


「楽しかったことも、たくさんあったから……あなたの優しいところも、知ってるから……だから、別れたくないって、思ったの」


 予想外の言葉に、僕は息を呑んだ。


「でも、前みたいには、付き合えないと思う。あなたのこと……その、あなたが抱えてるもののことも、ちゃんと知らなきゃいけない気がするから……」


 それは、完全な赦しや受容ではなかった。むしろ、これから始まるであろう、更なる苦悩への覚悟のような響きを持っていた。それでも、僕にとっては、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように感じられた。


「ありがとう……菜々美……」


 涙が、勝手に溢れてきた。


 しばらく、二人の間には沈黙が流れた。夕闇が迫り、公園には僕たち以外、誰もいなくなっていた。


「……一つだけ、お願いしてもいいかな」


 僕は、震える声で切り出した。言ってはいけないことだと分かっていながら、抑えきれない衝動が僕を突き動かした。


「……何?」


 菜々美の声は、警戒するように硬くなった。


 僕は言葉に詰まりながらも、視線で訴えた。足元に、誰かが植えたのだろうか、小さな白い花が健気に咲いていた。シロツメクサだった。


 菜々美は、僕の視線を追い、その花に気づいた。そして、僕が何を求めているのかを察したのだろう。彼女の顔が、苦痛に歪んだ。


「……いや……そんなこと……」


 彼女は首を横に振った。しかし、僕の懇願するような視線を受け止めると、彼女は深く、深くため息をついた。そして、ゆっくりと立ち上がり、花の前に立った。履いていたのは、いつもの黒いローファーだった。


 長い、長い躊躇。彼女の肩が、小さく震えているのが分かった。やがて、彼女は意を決したように、そっと右足のローファーの踵を上げた。そして――


 コツン、と硬質な音がして、白い花弁がローファーの黒い革の下に押し潰された。繊細な花弁は一瞬で形を失い、緑色の葉が潰れ、微かな草の匂いが立ち上った。菜々美は、顔を顰め、唇を固く結んでいた。その表情には、嫌悪と、罪悪感と、そして、僕には判別のつかない、何か別の感情が入り混じっているように見えた。


 彼女はすぐに足を離した。靴底には、潰れた花の緑色の汁と、白い花弁の欠片が、痛々しく付着していた。


 僕は、その光景を、息を詰めて見つめていた。罪悪感が胸を締め付ける。菜々美に、こんな残酷なことをさせてしまった。最低なのは、紛れもなく僕自身だ。しかし同時に、心の奥底では、抑えきれない倒錯した興奮が渦巻いていた。願望が、歪んだ形で叶えられてしまったことへの、悍ましい喜び。


 菜々美は、踏み潰した花には目もくれず、靴底についた汚れを気にするように、地面で数回、足を擦った。そして、僕の方を振り返ることなく、言った。


「……帰るね」


 その声は、感情が抜け落ちたように、平坦だった。


 彼女は、そのまま公園の出口へと歩き去っていった。ローファーの踵が、砂利道を擦る音が、やけに大きく聞こえた。僕は、その場に立ち尽くしたまま、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。


 踏み潰された白い花と、菜々美のローファーの靴底に残った緑色の痕跡。それが、僕たちの関係が、もう決して元には戻れない、新たな段階へと入ったことを、残酷なまでに明確に示していた。


 夕闇が、全てを飲み込んでいく。僕たちの歪んだ共犯関係は、この瞬間から、静かに、そして確実に始まったのだ。

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