第2話 偽りの関係
大島菜々美と僕の関係は、ぎこちなくも、確かに始まった。初めての彼女。隣を歩く温もり、交わす言葉の響き、すべてが新鮮で、僕の世界は色づき始めたように感じられた。しかし、その輝かしい日々の底には、常に冷たい
初めての本格的なデートは、駅前のシネコンだった。少しだけおしゃれをした菜々美は、白いブラウスにふわりとした花柄のスカートを合わせ、足元にはいつものローファーではなく、少しだけヒールのある黒いストラップシューズを履いていた。普段より少し大人びて見える彼女に、僕は心臓が跳ねるのを感じた。
「この靴、新しいんだ。ちょっと慣れなくて」
はにかみながら言う菜々美。細いストラップが彼女の白い足首を飾り、歩くたびに小さな金属のバックルが控えめな光を放つ。靴底は、ローファーよりも薄く、滑らかな合成ゴムでできているように見えた。おそらく、地面の感触がローファーよりもダイレクトに伝わるだろう。もし、この靴で柔らかな芝生の上を歩いたら? あるいは、熟した果実を踏みつけたら、どんな感触が彼女の足裏に伝わるのだろうか。そんな考えが頭をよぎり、僕は慌ててそれを打ち消した。
映画館の暗闇の中、隣に座る菜々美の存在を強く意識する。時折、彼女の腕が僕の腕に触れる。そのたびに、身体が強張り、意識が散漫になる。スクリーンで繰り広げられる物語よりも、暗闇の中でわずかに見える彼女の靴のシルエットや、スカートから伸びる脚のラインに、僕の視線は何度も吸い寄せられた。上映が終わり、明るくなった館内で立ち上がった菜々美の靴底が、床に落ちていたポップコーンの小さな塊を、パキリ、と音を立てて踏み潰した。ほんの一瞬の出来事。菜々美は気づきもしなかっただろう。だが、僕の目にはその瞬間がスローモーションのように映り、背筋に微かな痺れが走った。こんなことで興奮してしまう自分が、たまらなく醜く、そして恐ろしかった。
別の日、僕たちは新緑が眩しい公園を散歩した。手をつなぎ、他愛のない話をする。菜々美の笑顔は太陽のようで、僕の心の影を一時的に忘れさせてくれる。この時間が永遠に続けばいい、と心から願った。
その時だった。
「あ……」
菜々美が小さく声を上げた。見ると、彼女の履いていた白いスニーカーの靴底が、鮮やかなピンク色のツツジの花を一つ、踏みしだいていた。芝生の上に落ちていたのだろう。花弁は無残に押し潰され、その一部がスニーカーの白いゴムの側面に、赤いシミのように付着していた。
「あれ……気づかなかった」
慌てて足をどける菜々美。靴底には、花弁の断片と、潰れた花芯から滲み出た蜜のようなものが、べっとりと付着していた。スニーカーの靴底は、細かい凹凸のパターンが複雑に組み合わさっており、その溝の間に、ピンク色の残骸が入り込んでいるのが見えた。
「大丈夫だよ、落ちてた花だし」
僕は努めて平静を装って言ったが、内心は激しく動揺していた。潰れた花の痛々しい姿と、それを無慈悲に砕いた靴底のコントラスト。菜々美の「気づかなかった」という言葉の裏にある、花に対する無関心さ。それらが渾然一体となって、僕の倒錯した神経を強く刺激した。拾い上げたい。靴底に残った花の残骸を、指でなぞりたい。そんな衝動に駆られたが、僕はポケットの中で固く拳を握りしめ、必死に耐えた。
「そっか。でも、なんか可哀想だね」
菜々美はそう言って、少しだけ眉を顰めたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、「あっちに行ってみようよ!」と僕の手を引いた。彼女のその無邪気さが、僕には救いであり、同時に残酷な棘のようにも感じられた。僕の秘密を知ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。この優しい笑顔が、軽蔑と嫌悪に変わる瞬間を想像すると、全身の血が凍るような気がした。
学校での昼休み、屋上で一緒に弁当を食べるのが習慣になった。陽射しを浴びながら、菜々美は時々、窮屈そうにローファーを脱ぎ、足をぶらぶらさせることがあった。白いソックスに包まれた、小さくて形の良い足。指の付け根のあたりが、少しだけ赤くなっている。長時間靴を履いていたからだろうか。僕は、その無防備な足の裏や、ソックスの網目、彼女が気づいていないであろう小さな毛玉にまで、視線が吸い寄せられてしまうのを止められなかった。
下校途中、突然の雨に見舞われたこともあった。折り畳み傘を広げ、二人で肩を寄せ合って歩く。雨粒が傘を叩く音、湿ったアスファルトの匂い。菜々美のローファーが、水たまりを避けて歩くたびに、濡れた地面にその靴跡を残していく。規則的な波状のパターンが、一瞬だけ黒いアスファルトの上に浮かび上がり、そしてすぐに雨に溶けて消えていく。僕は、その儚い模様を、まるで大切な何かを見送るように、密かに目で追い続けた。
隠し事は、小さな綻びを生み始める。
ある休日、僕の部屋で一緒に試験勉強をしていた時のことだ。調べ物をしたいと言って、菜々美が僕のスマートフォンに手を伸ばした。
「ねえ、これ借りていい?」
「あ、だ、だめ!」
僕は、自分でも驚くほど大きな声で、反射的にスマホを隠していた。しまった、と思った時にはもう遅い。そこには、人には見せられない検索履歴や、密かに保存した、踏み潰された花や虫の画像が入っているかもしれないのだ。
「……どうして? 別に、変なもの見てるわけじゃないでしょ?」
菜々美は、少しむっとしたように僕を見た。その瞳には、明らかな不信感が浮かんでいる。
「いや、そういうわけじゃ……えっと、ちょっと充電が……」
しどろもどろになる僕。菜々美は、ふう、と小さくため息をつくと、「まあ、いいけど」と言って、自分のスマホを取り出した。その場はそれで収まったが、僕の不自然な態度は、彼女の中に小さな疑念の種を蒔いたに違いない。
道端で、誰かに踏み潰されてぺしゃんこになった空き缶や、泥で汚れた雑誌の切れ端。そんなものに、僕がふと足を止め、見入ってしまうことがあった。側溝に落ちて蠢く虫を、嫌悪感と好奇心の入り混じった複雑な表情で眺めてしまうことも。
「どうしたの? そんな汚いの見て」
菜々美は、不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「……なんでもない。ちょっと気になっただけ」
僕はいつもそう言って誤魔化すが、彼女の訝しげな表情は、僕の心をじわりと締め付けた。いつか、この嘘は暴かれる。その予感が、日に日に現実味を帯びてきていた。
季節は夏へと向かい、日差しは強さを増していく。菜々美との関係は、表面上は順調だった。手をつなぐことにも慣れ、時々は他愛ないことで笑い合えるようになっていた。彼女への想いは深まるばかりだった。この温かくて優しい存在を、失いたくない。
しかし、その想いが強くなればなるほど、僕の心の奥底に巣食う歪んだ欲望もまた、鎌首をもたげてくるのだった。菜々美の白いサンダルが、乾いた土を踏む音。浴衣から覗く、華奢な足首と素足。夏祭りで見かける、金魚すくいの破れたポイが地面に打ち捨てられ、誰かの下駄に踏まれていく様。日常のあらゆる風景が、僕のフェティシズムを刺激する。
この幸せは、いつまで続くのだろうか。この偽りの花園は、いつか必ず終わりを迎えるのではないか。
花火大会の帰り道、人混みの中を歩きながら、少し疲れた様子で僕の隣を歩く菜々美の足元に視線を落とす。鼻緒が少し食い込んだ、白いうなじのような足の甲。カラン、コロン、と鳴る下駄の音。その音を聞きながら、僕は祈るような気持ちで夜空を見上げた。来年もまた、こうして彼女の隣にいられるだろうか。この秘密を抱えたまま、僕は彼女を愛し続けることができるのだろうか。
夜空に咲いては消える大輪の花火のように、僕たちの幸せもまた、儚い幻なのかもしれない。そんな不安を抱えながらも、僕は菜々美の隣を歩き続けた。偽りであっても、今はまだ、この花園の中にいたかった。
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