第4話 別れ
あの夏の日、公園の片隅で交わされた歪んだ約束の後、僕と菜々美の関係は、静かに、しかし確実に変質していった。以前のような屈託のない笑顔や、他愛ないお喋りは影を潜め、二人の間には常に薄いガラスのような隔たりと、張り詰めた緊張感が漂っていた。
夏休みが明け、二学期が始まっても、その空気は変わらなかった。教室で目が合っても、どちらからともなく視線を逸らす。昼休み、屋上で一緒に弁当を食べることもなくなった。周囲のクラスメイトたちも、僕たちの間の不自然な距離感に気づき始めていたが、誰もその理由を深く詮索しようとはしなかった。
それでも、僕たちの歪んだ関係は続いていた。いや、僕が一方的にそれを続けさせていた、と言うべきだろう。放課後、人気のない校舎裏や、帰り道の途中にある寂れた神社の境内。そんな場所で、僕は菜々美に「お願い」をするようになった。
最初は、道端に落ちていた椿の花だった。肉厚な赤い花弁が、菜々美のローファーの下で、音もなく潰れていく。次は、色づき始めた落ち葉。パリパリと乾いた音を立てて砕ける感触が、僕の耳にこびりついた。
菜々美は、ほとんどの場合、無表情で僕の要求に応じた。その瞳には何の感情も映っていなかったが、時折、唇をきつく噛み締めたり、踏み潰した対象から目を背けたりする仕草に、彼女の抑え込んだ苦痛が見て取れた。僕はそのたびに、胸が締め付けられるような罪悪感を覚えた。こんなことをさせてはいけない。今すぐにやめなければ。そう思うのに、僕の口からは、また次の「お願い」が出てしまうのだった。
ある日、僕は彼女に、以前僕が「綺麗だね」と褒めたことのある、少しヒールの高いエナメルのパンプスを履いてきてほしいと頼んだ。菜々美は何も言わずに頷き、次の日、そのパンプスを履いてきた。光沢のある黒いエナメル、尖ったつま先、そして、地面を捉えるたびにコツ、コツと硬質な音を立てる細いヒール。その靴で、僕は彼女に、公園の植え込みに咲いていたマリーゴールドの花を踏んでほしいと頼んだ。
菜々美は、躊躇うことなく、尖ったヒールでオレンジ色の花の中心を正確に突き刺した。ぐしゃり、という湿った音と共に、花弁が四散し、茎が折れる。ヒールを引き抜くと、その先端には花の黄色い花粉と緑色の汁がべっとりと付着していた。靴底の、比較的フラットな部分で、さらに残った花弁をぐりぐりと踏みつける。その一連の動作は、驚くほどに手慣れていて、どこか機械的ですらあった。
「……これで、満足?」
冷たい声で、菜々美は言った。その瞳には、以前のような苦痛の色はなく、代わりに、氷のような冷ややかさと、僕に対する侮蔑のようなものが浮かんでいるように見えた。僕は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。彼女の中で、何かが確実に変わり始めていた。それは、僕が望んだことではなかったはずなのに、僕自身がそれを引き起こしてしまったのだ。
秋が深まり、冷たい雨が続くようになったある日のこと。僕は、さらに踏み込んだ要求をしてしまった。雨に濡れた帰り道、街灯の光の下で、大きな蛾が力なくアスファルトに落ちているのを見つけた。羽は濡れそぼり、ほとんど動かない。僕は、菜々美がその日履いていた、深いギザギザの溝が刻まれたレインブーツの靴底で、それを踏んでほしいと思ったのだ。
「……お願いだ、菜々美」
僕の言葉に、菜々美は一瞬、足を止めた。街灯の光が、彼女のレインブーツの濡れた表面を鈍く照らす。彼女は、黙って蛾を見下ろしていた。その表情は、雨に濡れた窓ガラスのように、何も読み取れなかった。
やがて、彼女はゆっくりと右足を上げた。そして、ためらうことなく、ブーツの底を蛾の上に落とした。
グシャリ。
鈍く、湿った音が響いた。それは、花や枯葉が潰れる音とは全く異質な、生々しい破壊の音だった。ブーツの底で、蛾の体液と鱗粉がアスファルトに塗りつけられる感触が、僕にまで伝わってくるようだった。
菜々美は、一瞬、顔を歪めた。そして、まるで汚物でも見るかのように、踏み潰した蛾の残骸を見下ろし、すぐに視線を逸らした。
「……早く帰ろう」
その声は、微かに震えていた。その夜、僕の頭の中では、あの湿った破壊の音と、菜々美の歪んだ表情が何度も繰り返された。僕は、取り返しのつかない一線を越えてしまったのではないか。そんな予感が、冷たい雨のように心を濡らしていた。
そして、運命の日が訪れた。
それは、木枯らしが吹き始めた、肌寒い放課後の帰り道だった。アパートのゴミ捨て場の脇を通りかかった時、黒光りする、一匹の大きなゴキブリが壁を這っているのが目に入った。それは、僕が最も嫌悪し、同時に最も強く惹かれてしまう対象だった。
僕は、悪魔的な衝動に突き動かされるように、隣を歩く菜々美の腕を掴んだ。
「菜々美……あれを……」
声が震える。指差した先を認めた菜々美の顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。
「……いや……」
彼女は、か細い声で呟き、後ずさった。
「お願いだ……あれを踏んでくれないか……? あの、エナメルのパンプスで……」
僕は、何を口走っているのだろうか。自分でも制御できない。ただ、どす黒い欲望だけが、僕を支配していた。
その瞬間、菜々美の中で、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……ふざけないでっ!!」
甲高い絶叫が、冷たい空気を切り裂いた。それは、僕が今まで聞いたことのない、激しい怒りと拒絶に満ちた声だった。
「もう、無理っ……! どうして私が、あんたのそんな異常な欲望を満たすために、こんな汚いものまで踏まなきゃいけないのよっ!?」
涙が、彼女の頬を伝って流れ落ちる。
「私が何に見える!? あんたの性欲処理の道具!? 私だって、嫌なのよ! 気持ち悪いのよ! 花を踏むのも、虫を踏むのも、本当はずっと嫌だった! それでも、あんたが好きだから、別れたくないから、我慢してたのに……!」
溜まりに溜まった感情が、堰を切ったように溢れ出す。彼女の言葉の一つ一つが、鋭いナイフのように僕の胸に突き刺さる。
「もう、限界……! あんたの顔も見たくない!」
菜々美は、憎悪に満ちた目で僕を睨みつけると、きっぱりと言い放った。
「終わりにしよう。……さようなら」
その声は、氷のように冷たく、一切の未練も感じられなかった。
彼女は踵を返し、一度も振り返ることなく、速足で去っていった。コツ、コツ、コツ……アスファルトを叩く、彼女の靴音だけが、いつまでも僕の耳に残った。それは、僕たちの関係の終わりを告げる、冷酷な鎮魂歌のように響いていた。
僕は、その場に崩れ落ちるように立ち尽くした。菜々美が去っていった道を、ただ呆然と見つめる。木枯らしが、ゴミ捨て場のゴミをカサカサと鳴らして吹き抜けていく。壁には、先ほどのゴキブリの姿はもうなかった。
何もかも、終わってしまった。僕が、僕自身の醜い欲望のために、全てを壊してしまったのだ。失われたものの大きさと、犯した罪の重さに、僕はただ打ちのめされるしかなかった。
僕たちの歪んだ約束は、こうして、完全に枯れ果てたのだった。
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