第5話 白いカーテンとメガネの奥の素顔
土曜日の朝、目覚ましより先に目が覚めた。時計を見ると七時半。今日は玲衣との約束がある。
起き上がり、窓の外を見る。晴れた空が広がっていた。カーテンを開けると、隣家の玲衣の部屋が見えた。白いカーテンが引かれていて、中の様子はわからない。
制服を脱ぎ、久しぶりに私服を選ぶ。特別なことはないのに、なぜか服を選ぶ手が迷う。結局、シンプルな紺のシャツとジーンズにした。
階下に降りると、キッチンから物音がしていた。
「おはよう」
振り向くと、紗耶がエプロン姿で立っていた。
「おはよう。早いね」
「颯太くんも早いわね」
紗耶は微笑んだ。その表情に、あの夜のことを思い出して、思わず目を逸らす。
「今日は出かけるの?」
「ああ、ちょっと勉強しに」
「図書館?」
「うん」
「誰と?」
その問いに、一瞬ためらう。
「玲衣と」
「そう」
紗耶の声が僅かに冷たくなった気がする。それとも気のせいだろうか。
「朝ごはん食べる?」
「ああ、お願い」
テーブルに座ると、紗耶はトーストとスクランブルエッグを置いた。そのとき、紗耶の指が僕の手に触れる。ほんの一瞬だったが、その温もりが残った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
紗耶はコーヒーを淹れながら、時々僕を見ていた。その視線に何か言いたげなものを感じる。
「昨日、里奈は大丈夫だった?」
「ええ、熱はなかったみたい。ただの疲れじゃないかしら」
「そう。良かった」
「心配?」
「当たり前じゃん」
紗耶は小さく笑った。
「本当に優しいのね、颯太くんは」
その言葉に、少し照れくさくなる。
食事を終え、準備を始めると、階段を降りてくる足音がした。振り向くと、パジャマ姿の菜々が大きなあくびをしていた。
「おはよー」
「早いな、お前」
「だって土曜だもん。アニメあるし」
そう言って菜々はリビングのソファに座り、テレビをつけた。典型的な休日の朝の光景。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
紗耶の声と、菜々の「いってらー」という声を背に、家を出た。心地よい朝の空気が肌を撫でる。
駅前に着くと、既に玲衣が待っていた。いつもの眼鏡に、白いワンピースを着ている。髪は普段より丁寧にセットされているように見える。
「おはよう」
「おはよう、颯太」
玲衣の声には、学校での冷たさはなかった。少し緊張した様子ではあるが、昨日までの気まずさは消えていた。
「時間ぴったりね」
「ああ、急いできたんだ」
「そう」
二人で図書館に向かう。途中、喫茶店の前を通ると、玲衣が立ち止まった。
「ここで勉強する?」
「えっ、図書館じゃなくて?」
「たまには気分転換も必要でしょ」
そう言って玲衣は店に入った。僕も迷わず従う。
席に着き、注文を済ませる。窓際の静かな場所で、外の景色が見える。テーブルの上に参考書を広げた。
「昨日の模試、どうだった?」
「まあまあかな。英語と数学は良かったけど、国語がね」
「国語、前より良くなってるわよ」
「え、見たの?」
「廊下に貼り出されてたじゃない、結果」
「ああ、そっか」
玲衣は眼鏡を直しながら、問題集を開いた。その仕草は、いつも通りなのに、今日は少し違って見える。いつもより丁寧な服装、少し違う雰囲気。
「どうかした?」
「え?」
「じっと見てるけど」
玲衣の言葉に、慌てて目を逸らす。
「いや、なんでもない」
「そう」
短い返事と共に、玲衣は問題に戻った。僕も参考書を開く。でも、なぜか集中できない。視線は自然と玲衣に向かう。
注文したドリンクが運ばれてきた。玲衣はホットティー、僕はアイスコーヒー。玲衣がカップを持つ指が、細く白い。それを見つめていると、ふと彼女が眼鏡を外した。
「どうしたの?」
「曇ってきたから」
眼鏡のないその顔は、いつもと違って見える。少し幼さが残り、同時に大人びた印象。普段は眼鏡に隠れている瞳の色が、はっきりと見えた。
「久しぶりね」
「何が?」
「こうして二人きりで出かけるの」
玲衣の言葉に、考える。確かに、最近は一緒に出かけることがなかった。以前は当たり前のようにしていたことなのに。
「そうだな」
「いつからだろう」
「いつから?」
「距離ができたの」
その問いに、言葉に詰まる。距離。確かに、最近は何か見えない壁があるように感じていた。それはいつから始まったのだろう。
「わからない」
「そう」
玲衣はゆっくりとティーを飲んだ。
「颯太のお母さんが亡くなってから、かな」
その言葉に、思わず息を呑む。母の死。それは確かに、全てを変えた出来事だった。
「そうかもな」
「あの時、私、どうすればいいかわからなかった」
玲衣の声は静かだった。
「でも、自分から距離を置いてしまった」
「いや、そんなことないよ」
「あるわ」
玲衣は窓の外を見た。
「颯太が一人になりたいときもあると思って、無理に近づかなかった。でも、それが逆に……」
言葉が途切れる。その目に微かな後悔の色が見える。
「玲衣は何も悪くないよ」
「そう?」
「うん。むしろ、俺の方こそ」
母の死後、確かに僕は周囲との距離を置いていた。それは玲衣に対しても同じだった。心の奥に壁を作り、誰も入れないようにしていた。
「私たち、変わっちゃったのかな」
その問いに、考える。変わったのか、それとも単に成長しただけなのか。
「変わったというか……」
「大人になった?」
「そうかもね」
玲衣は眼鏡を戻した。まるで仮面をつけるように。
「私ね、颯太のこと、ずっと見てたの」
「え?」
「子供の頃から、いつも」
その言葉に、心臓が早くなるのを感じる。
「母親が亡くなって、颯太がどんどん閉じていくのも見てた」
玲衣の声は静かだが、しっかりとしていた。
「それで、新しい家族ができて」
「……」
「颯太の表情が、少しずつ変わっていくのも」
その言葉に、何も返せない。玲衣はずっと僕を見ていた。僕が気づかないうちに、全てを見ていた。
「だから、ちょっと寂しかったの。そのことを言ってくれなかったとき」
「ごめん」
「謝らなくていいわ」
玲衣は微笑んだ。その笑顔には、どこか諦めのようなものが混じっていた。
「菜々ちゃんと里奈ちゃん、仲良くなれそう?」
「ああ、うん。もう少しだけ時間がかかるかもしれないけど」
「そう」
玲衣はノートを開き、問題に戻った。ペンを走らせる音だけが聞こえる。その姿を見ていると、昔からの光景を思い出す。小学生の頃、一緒に宿題をしていた日々。
「あのさ」
「なに?」
「双子の妹たち、明日何もない?」
「え? たぶん」
「じゃあ、うちに呼んでみたら?」
その提案に、驚く。
「玲衣の家に?」
「うん。母が『颯太くんの新しい家族に会いたい』って言ってたの」
玲衣の母は昔から僕に優しかった。母親が亡くなった後も、よく家に招いてくれた。
「いいの?」
「ええ、もちろん」
「わかった、聞いてみる」
玲衣は微笑んだ。その表情には、先ほどまでの寂しさはなかった。
「じゃあ、これ解いてみて」
玲衣が問題集を差し出した。数学の難問だ。
「難しそう」
「できるわよ、颯太なら」
その言葉に、少し勇気づけられる。ペンを取り、問題に向き合う。
時間が流れる。窓から差し込む光が、テーブルの上を明るく照らしていた。玲衣の横顔を見ると、集中している表情が美しく見える。
改めて思う。玲衣は僕にとって特別な存在だ。それがどういう意味なのか、まだ自分でもわからない。でも、彼女がいなければ、今の僕はないだろう。
窓の外の光が、白いカーテンのように玲衣を包んでいた。眼鏡の奥に隠された本当の彼女の姿。それを僕はようやく見始めていた。
「颯太」
「なに?」
「ありがとう」
「何が?」
「来てくれて」
シンプルな言葉に、胸が温かくなる。
「こちらこそ」
玲衣は微笑んで、再び問題に戻った。その横顔を見ながら、僕も自分の課題に向き合う。
冷めかけたコーヒーを飲みながら考える。新しい家族と、古くからの友人。それらが交わる場所に、僕は立っている。
その思いを抱えながら、静かに鉛筆を走らせた。
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