第6話 雨の日の教室と図書館の約束
翌日、雨の音で目が覚めた。窓の外を見ると、灰色の空から細かな雨が降り注いでいる。時計は九時を指していた。
「そういえば、十時に玲衣と待ち合わせだった」
ベッドを出て顔を洗い、着替えを済ませる。階下に降りると、里奈が読書をしていた。
「おはよう」
「おはようございます、兄さん」
里奈は本から顔を上げた。昨日、図書館に一緒に行きたいと言っていたことを思い出す。
「あの、昨日言ってたこと…」
言いかけると、里奈は小さく首を振った。
「大丈夫です。兄さんには約束があるんですよね」
「うん、そうなんだけど」
「白石さんとの約束、大切にしてください」
その言葉には優しさがあった。朝の陽光が窓から差し込み、里奈の横顔を照らしている。
「ありがとう」
キッチンでトーストを焼き、コーヒーを入れる。食事を終えると、玄関で傘を手に取った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
里奈の穏やかな声を背に、雨の中へと出る。
駅前に到着すると、玲衣が既に待っていた。水色の傘を差し、白いカーディガンを着ている。
「おはよう」
「おはよう、颯太」
玲衣の目には、少し期待が浮かんでいるように見えた。
「図書館、混んでるかな」
「日曜だからね。でも大丈夫じゃないかな」
二人で歩き始める。雨の音が会話を優しく包む。
「里奈ちゃんは?」
「家で読書してた」
「そう」
短い返事の後、沈黙が訪れる。以前なら何でも話せたのに、最近は何か言葉に詰まることが多かった。それは僕だけなのか、それとも玲衣も同じなのか。
図書館に着くと、案の定、多くの学生で賑わっていた。テスト期間が近いからだろう。
「あそこ、空いてる」
玲衣が指差した窓際の席に向かう。二人分のスペースがかろうじて確保できた。
「昨日の補習、どうだった?」
「まあまあかな。英語は復習が必要だけど」
「じゃあ、それから始める?」
玲衣は参考書を開いた。雨の光が彼女の眼鏡に反射して、目元がよく見えない。
問題を解き始めて十分ほど経ったとき、背後から声がした。
「兄さん」
振り向くと、里奈が立っていた。傘を持ち、少し湿った髪をかき上げている。
「里奈? どうしたの?」
「勉強しようと思って」
その言葉に、一瞬戸惑う。里奈はそれを察したのか、すぐに付け加えた。
「別の席で大丈夫です」
「いや、そうじゃなくて…」
「あら、里奈ちゃん」
玲衣が穏やかな声で言った。
「一緒に勉強する?」
「いいんですか?」
「もちろん」
玲衣は隣の席を指差した。ちょうど空いたところだった。
「ありがとうございます」
里奈は小さく頭を下げ、席に着いた。三人並んで勉強し始める。
玲衣は時々僕の問題を覗き込み、アドバイスをくれる。里奈は黙々と自分の問題に取り組んでいるが、時折こちらを見ているのを感じる。
「颯太、ここ間違ってるわよ」
玲衣が英語の問題を指差した。確かに、動詞の活用を間違えていた。
「あ、ほんとだ」
「ここ、現在完了形だから」
「なるほど」
修正しながら、玲衣の指先が僕の手に触れる。ほんの一瞬だが、その感触が残った。
「兄さん」
里奈の静かな声。
「この問題、教えてもらえますか」
彼女が指差したのは、中学三年の数学の問題だった。
「ああ、これね」
説明しながら、里奈の真剣な横顔を見る。集中している表情は、普段より柔らかい印象だ。
「なるほど」
里奈は小さく頷いた。
時間が流れる。窓から見える雨は、いつの間にか上がっていた。雲の間から日が射し、テーブルを照らしている。
「そろそろお昼にしない?」
玲衣の提案に頷く。
「図書館の食堂、今日やってるかな」
「やってるわよ。看板出てた」
三人で食堂に向かう。里奈は少し遠慮がちに後ろを歩いていた。
「里奈、何食べる?」
「なんでも大丈夫です」
「じゃあ、私が選んであげるわ」
玲衣は里奈の手を取り、メニューを一緒に見始めた。その光景を見ていると、姉妹のようにも見える。
食事を終え、再び勉強に戻る。午後の図書館は少し空いてきていた。窓から差し込む陽光が、テーブルを明るく照らしている。
「颯太、この問題解ける?」
玲衣が難しそうな数学の問題を指差した。
「うーん、ちょっと考えてみる」
解き方を思い出しながら取り組んでいると、里奈が小さく声を上げた。
「わかりました」
「え?」
「この解き方です」
里奈はノートに書いた解答を見せてくれた。中学生とは思えない解法だった。
「すごいね、里奈」
「里奈ちゃん、頭いいのね」
玲衣の言葉に、里奈は少し照れた様子で目を伏せた。
「ありがとうございます」
その後も三人で勉強を続ける。時々、里奈が問題について質問し、僕や玲衣が答える。そんな穏やかな時間が流れていった。
窓の外が徐々に暗くなり始めた頃、携帯が鳴った。
「あ、菜々からだ」
「もしもし?」
『颯太兄ちゃん、夕ご飯どうする? お姉ちゃん、まだ帰ってこないんだけど』
菜々の声には少し不安が混じっていた。
「ああ、もうすぐ帰るよ。何か買って帰ろうか?」
『うん、お願い!』
電話を切り、二人に説明する。
「菜々が夕食のこと心配してて。そろそろ帰ろうかな」
「そうね、もう五時だし」
「一緒に帰りましょう」
三人で荷物をまとめ、図書館を出る。空は既に夕暮れで、街灯が灯り始めていた。
「今日は勉強捗ったね」
「ええ、良かったわ」
「はい」
それぞれの声には、充実感が滲んでいた。
分かれ道に来て、玲衣が立ち止まった。
「じゃあ、また明日学校で」
「うん、また明日」
「白石さん、ありがとうございました」
里奈の言葉に、玲衣は微笑んだ。
「どういたしまして。また一緒に勉強しましょうね」
玲衣が別れ際に言った言葉は、三人への約束のようだった。
帰り道、里奈と二人で歩く。夕暮れの空が赤く染まっている。
「楽しかった?」
「はい、とても」
里奈の表情には、普段見せない柔らかさがあった。
「白石さん、いい人ですね」
「そうだね。昔からそうなんだ」
「兄さんにとって、特別な人なんですね」
その言葉に、どう答えればいいのか迷う。確かに玲衣は特別な存在だ。でも、それがどういう意味なのか、自分でもまだ掴めていない。
「まあ、幼馴染だからね」
「違います」
里奈の断言に、足が止まりそうになる。
「どういう意味?」
「白石さんの兄さんを見る目、特別です」
鋭い観察に、言葉に詰まる。
「そうかな」
「はい」
里奈はそれ以上何も言わず、歩き始めた。その後ろ姿から、何か言いたげな雰囲気を感じる。
家に着くと、菜々が玄関で待っていた。
「お帰りー!」
「ただいま」
「里奈、どこ行ってたの?」
「図書館」
「え、二人で?」
「白石さんも一緒でした」
菜々は目を丸くした。
「いいなー、私も行けば良かった」
「次は三人で行こうよ」
「うん!」
菜々が明るく笑う。里奈も小さく微笑んだ。
夕食を準備しながら、今日一日を振り返る。玲衣との勉強、里奈の不意の登場、三人での穏やかな時間。
それは何気ない日常の一コマだったが、何か特別な色を持っているように感じられた。
窓の外を見ると、星が瞬き始めていた。今日雨で洗われた空は、いつもより澄んで見える。
そんな空を見上げながら、明日もまた、新しい日常が始まることを思った。
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