第3話 義姉は夜、俺のベッドで眠る

その日の夜、僕は机に向かって勉強していた。明日は模試があり、少しでも成績を上げたかった。窓の外は既に暗く、時計の針は十時を指している。


ノートを開きながら考える。玲衣は今日一日、教室でも僕を避けていた。昼休みに話しかけても、そっけない返事だけ。あんなに長い付き合いなのに、こんな態度を取られるのは初めてだった。


家族のことを伝えなかったのは、確かに僕のミスだったかもしれない。でも、どうやって切り出せばよかったのだろう。「実は父が再婚して、義理の姉と双子の妹ができたんだ」なんて。


考えながらペンを回していると、ノックの音がした。


「颯太くん?」


紗耶の声だった。


「どうぞ」


ドアが開くと、紗耶が顔を覗かせた。長い黒髪が肩から流れ落ちている。手には温かそうな湯気の立つマグカップ。


「勉強中?」


「うん、明日模試があるから」


「そう。邪魔しちゃった?」


「ううん、大丈夫」


紗耶は部屋に入ってきて、マグカップを机の上に置いた。ホットミルクの香りが鼻をくすぐる。


「ありがとう」


「頑張ってるみたいだから」


紗耶は僕の背後に立ち、肩越しにノートを覗き込んだ。その髪の先が僕の首筋に触れる。微かに甘い香りがする。


「英語?」


「うん」


その距離の近さに、妙な緊張感が走る。紗耶の吐息が耳元に感じられるほど。


「何か難しいところある?」


「いや、大丈夫」


「そう」


紗耶はそのまま動かない。その視線がノートからゆっくりと僕の顔に移るのを感じた。


「颯太くん、今日は遅くまで起きてる?」


「もう少しだけ」


「そう……」


紗耶の声には微かな期待が混じっていた。それから、軽くため息をついて離れた。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


ドアが閉まり、足音が遠ざかる。再び静寂が戻ってきた。マグカップから立ち上る湯気を見つめながら、先ほどの紗耶の言葉の意味を考える。何か言いたいことがあったのだろうか。


ホットミルクを一口飲み、再び勉強に戻る。数式を解き、英単語を暗記する。でも、どうしても集中できない。頭に浮かぶのは、紗耶の香りや、玲衣の冷たい態度、そして菜々と里奈の笑顔。


時計を見ると、もう十一時を回っていた。さすがに限界だ。明日に備えて早く寝ることにした。


シャワーを浴び、歯を磨き、部屋に戻る。ベッドに横になると、天井を見上げながら今日一日を振り返る。あれから一ヶ月。まだ慣れないことも多いけれど、少しずつ新しい家族との生活にも馴染んできた気がする。


目を閉じ、眠りに落ちようとした時、ドアをノックする音がした。


「颯太くん? まだ起きてる?」


紗耶の声。さっきより小さく、遠慮がちだった。


「起きてるよ」


ドアが開き、紗耶が顔を覗かせた。薄いパジャマ姿で、髪はまとめられている。


「どうしたの?」


「ごめんなさい、こんな時間に」


紗耶は部屋に入ってきて、ドアを閉めた。その仕草に何か緊張したものを感じる。


「実は……ちょっと話したいことがあって」


「うん」


僕はベッドから起き上がり、椅子を勧めた。でも紗耶は首を振って、ベッドの端に腰掛けた。


「なに?」


「颯太くん、学校は大丈夫?」


「え?」


「今朝、玲衣さんと何かあったみたいだったから」


その言葉に、思わず息を呑む。それを紗耶は見逃さなかった。


「やっぱり、何かあったのね」


「いや、別に……」


「私たちのこと、友達に言ってなかったの?」


鋭い指摘に、言葉に詰まる。


「言いづらかったんだ」


「どうして?」


「どうしてって……」


紗耶の問いに、自分でも明確な答えは持っていなかった。なぜ言いづらかったのか。恥ずかしかったからだろうか。それとも、何か特別な理由があったのだろうか。


「ごめん。言うべきだったね」


「いいのよ。ただ、気になっただけ」


紗耶は微笑んだが、その目には何か悲しそうな色が浮かんでいた。


「私たちが来て、迷惑かけてるのかなって思って」


「違うよ」


思わず強い口調で否定した。紗耶の目が少し開いた。


「むしろ、良かったと思ってる。前より家が明るくなった気がするし」


「そう……」


紗耶の表情が柔らかくなった。安堵の色が見える。


「ところで、颯太くん」


「なに?」


「私、寝付きが悪くて」


唐突な話題の転換に、戸惑う。


「そうなの?」


「うん。特に新しい環境だと」


「そうか……」


「だから、その……」


紗耶の言葉が途切れた。目を伏せている。


「少しだけ、ここにいてもいい?」


その言葉に、一瞬思考が止まった。


「え?」


「ほんの少しだけ」


「でも……」


答えに詰まる僕の前で、紗耶はゆっくりとベッドに横になった。その仕草に慌てて立ち上がる。


「ちょっと、お姉さん」


「少しだけよ」


紗耶は目を閉じた。長いまつげが頬に影を落としている。


「私が眠ったら、起こさなくていいから」


「でも、そんな……」


「お父さんとお母さんは出張中だし、誰にも迷惑かけないわ」


その理屈に、反論できない。確かに両親は海外出張中で、帰ってくるのは来週の予定だった。


「明日、学校でしょう?」


「うん……」


「じゃあ、早く寝なさい」


まるで姉と弟の立場が逆転したような会話。困惑しながらも、僕はベッドの端に座った。紗耶と距離を置くように。


「颯太くん」


「なに?」


「怖がらなくていいわよ。私は義理の姉なんだから」


その言葉には、微かな皮肉が混じっていた。義理の姉。つまり、血の繋がりはない。その事実が、この状況をより複雑にしていた。


「おやすみなさい」


紗耶の声は小さく、既に眠気を含んでいた。その横顔を見ていると、どこか儚さを感じる。


しばらくベッドの端で座っていたが、紗耶の寝息が聞こえ始めた。眠ったようだ。起こして自分の部屋に帰ってもらうべきか、それともこのままにするか。悩んだ末、毛布を掛けてあげることにした。


そっと立ち上がり、クローゼットから予備の毛布を取り出す。紗耶の上にそっと掛けると、彼女は無意識に毛布を掴んだ。その表情は穏やかで、日中の気丈さが消えていた。


さて、自分はどうしよう。ソファで寝るか、それとも……


迷った末、ベッドの端に再び腰掛けた。幸い、ベッドは広いので、端の方なら問題ないだろう。明日は早いし、今更別の部屋で寝る準備もできない。


横になり、紗耶に背を向ける。できるだけ距離を置こうとするが、それでも彼女の寝息や体温を感じる。不思議と、嫌な感じはしない。むしろ、どこか安心感があった。


目を閉じると、紗耶の微かな香りが鼻をくすぐる。柔らかいシャンプーの香り。それは母の使っていたものと似ていた。


その香りに包まれながら、少しずつ眠りに落ちていく。最後に思ったのは、明日起きた時の状況だった。どんな顔をして挨拶すればいいのだろう。


そんなことを考えているうちに、意識が遠のいていった。


目を覚ますと、窓から朝日が差し込んでいた。時計を見ると六時半。いつもより早い。


身体を起こそうとして、違和感に気づく。何か温かいものが背中に触れていた。振り向くと、紗耶が僕にぴったりとくっついて眠っていた。


昨夜は確かに距離を置いて寝たはずなのに、いつの間にか近づいていたのか。紗耶の寝顔は穏やかで、長い髪が僕の腕に掛かっていた。


どうしよう。起こすべきか、このままにするか。迷っていると、紗耶がゆっくりと目を開いた。


目が合う。一瞬の沈黙。


「おはよう、颯太くん」


平静な声に、言葉に詰まる。


「お、おはよう……」


紗耶は微笑んで、身体を起こした。


「よく眠れた?」


「え? ああ、うん」


「そう。良かった」


まるで何でもないかのような会話。紗耶は髪を整えながら立ち上がった。


「朝ごはん、作っておくわね」


そう言って、紗耶は部屋を出て行った。ドアが閉まると、深く息を吐き出す。なんだったんだ、今の状況は。


窓の外を見ると、隣家の窓が目に入った。玲衣の部屋だ。彼女にこの状況を知られたら、どう思うだろう。


考えていると、ドアがノックされた。慌てて「はい」と返す。


ドアが開き、里奈が顔を覗かせた。


「おはよう、兄さん」


「おはよう」


里奈の視線が部屋の中を巡る。それからベッドに向けられた。まるで何かを探るような目だった。


「姉さん、ここにいた?」


その問いに、思わず言葉に詰まる。


「なんで?」


「朝、姉さんの部屋に行ったけど、いなかったから」


どう答えるべきか迷う。嘘をつくべきではないが、かといって真実を言うのも複雑だ。


「ちょっと、朝早く来てくれたんだ」


曖昧な答えに、里奈は首を傾げた。その目に疑いの色が浮かんでいる。


「そう」


短い返事と共に、里奈は部屋を出て行った。その後ろ姿に、何か言うべきか迷う。でも、何も思いつかなかった。


深くため息をつき、制服に着替える。鏡に映る自分の顔には、少し疲れた色が見える。


そんな朝、新たな日常がまた一歩、奇妙な方向へ進み始めていた。

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