第2話 静かな家の崩れる音

翌朝、目覚ましのアラームより先に、ノックの音で目が覚めた。


「颯太くん、起きてる?」


扉の向こうから紗耶の声。昨夜の約束を覚えていたのだろう。


「ああ、起きてる」


返事をすると、ドアが静かに開いた。紗耶は既に朝の支度を済ませていて、薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。


「朝ごはん、できてるわよ」


「ありがとう。すぐ行くよ」


紗耶はドアの前で一瞬躊躇い、それから微笑んで下がっていった。その後ろ姿を見送りながら、昨夜の違和感がよみがえる。


着替えを済ませて階下に降りると、キッチンからトーストの匂いが漂ってきた。テーブルには既に朝食が並んでいる。


「おはよう」


声の方を振り向くと、制服姿の里奈がテーブルに座っていた。


「おはよう。早起きだな」


「うん。テスト週間だから」


制服のリボンを整えながら、里奈は静かに答えた。その手元に視線を落とすと、机の上にはノートが開かれている。朝食前から勉強していたらしい。


「お父さんは?」


「まだ帰ってないよ」


そうか。昨夜遅くなったのか、それとも予定が変わったのか。


「颯太兄さん、これ」


里奈が差し出したのは、小さなメモ用紙だった。


「何これ?」


「私の携帯番号。何かあったら連絡して」


唐突な申し出に、一瞬言葉に詰まる。


「あ、ありがとう」


「べつに、何かあったらって言っただけだから」


そう言って里奈は目を逸らした。その横顔に、どこか緊張した様子が見て取れる。


「颯太くん、こっちにどうぞ」


キッチンから紗耶の声がした。振り向くと、エプロン姿で微笑んでいる。


席に着くと、紗耶はコーヒーを淹れてくれた。香りが立ち上る。


「いつも準備してくれて、ありがとう」


「いいのよ。私、こういうの好きだから」


そう言って紗耶は僕の隣に座った。少し距離が近い。


「颯太くんは、朝食どんなのが好き?」


「え? 特に……何でも」


「そう。でも、ちゃんと教えてほしいな」


紗耶の視線が僕の顔に留まる。なぜだろう、朝なのに体温が上がるような感覚。


「颯太兄ちゃーん!」


階段を駆け下りる音とともに、菜々の声が響いた。まだパジャマ姿で、髪もボサボサのまま。


「おはよー!」


「おはよう。制服は?」


「これから着替える!」


「遅刻するぞ」


「大丈夫大丈夫!」


そう言って菜々はキッチンに向かい、トーストを口に咥えた。


「菜々、ちゃんと座って食べなさい」


紗耶の声に、菜々は不満そうな顔をしたが、素直にテーブルについた。四人で食べる朝食。不思議な光景だ。


「ねえ、今日は颯太兄ちゃんと一緒に帰れる?」


菜々の問いに、首を傾げる。


「今日は生徒会の仕事があるから、遅くなると思うよ」


「えー、そうなんだ」


菜々が肩を落とす。


「私も委員会だから」


里奈の言葉に、菜々は更に不満そうな顔になった。


「私だけポツンじゃん」


「部活は?」


「今日は休み」


菜々は頬を膨らませた。その仕草が、どこか幼さを残している。


「じゃあ、私が迎えに行ってあげるわ」


紗耶の申し出に、菜々の顔が明るくなった。


「ほんと? ありがとう、姉ちゃん!」


「颯太くんも一緒に迎えに行ってあげる?」


紗耶の言葉に、一瞬息が詰まる。


「あ、でも生徒会の仕事が……」


「そっか」


紗耶の微かな失望に、胸に小さな痛みを感じた。


朝食を終え、玄関で靴を履いていると、背後から微かな物音がした。振り向くと、里奈が立っていた。


「一緒に行く?」


「うん」


短い返事だったが、その目には期待が浮かんでいるように見えた。


「菜々は?」


「まだ髪セットしてる」


里奈の言葉に頷き、二人で家を出た。朝の空気が肌を撫でる。隣を歩く里奈は、自分の影より小さく見えた。


「学校、どう?」


唐突な質問に、里奈は少し驚いた顔をした。


「普通」


「そう」


会話が途切れる。何を話せばいいのか、わからない。


「兄さんは、私たちが来てどう?」


里奈の問いに、言葉を選ぶ。


「賑やかになった」


「邪魔?」


「違うよ。むしろ、いいと思う」


里奈の表情が少し緩んだ。


「そっか」


小さな言葉と共に、里奈の肩が僕の腕に触れた。距離が近い。でも、不思議と居心地が悪くなかった。


「学校の友達には言った?」


「何を?」


「家族が増えたこと」


「ああ、少しだけ」


実際には、特に詳しくは話していなかった。特に玲衣には。なぜか、彼女には言いづらかった。


「そう」


また会話が途絶える。でも、今度は心地よい沈黙だった。


学校の角を曲がると、制服姿の女子が立っていた。長い黒髪にメガネ。白石玲衣だ。


「お、おはよう」


僕の声に、玲衣は振り向いた。そして僕の隣にいる里奈に気づく。


「おはよう、颯太」


玲衣の目が里奈に移る。


「こちらは?」


「ああ、義理の妹の里奈。里奈、こっちは白石玲衣。小学校からの幼馴染み」


里奈は小さく頭を下げた。


「結城里奈です。よろしく」


「白石玲衣よ。よろしくね」


玲衣の口調は丁寧だったが、その目は里奈を観察していた。


「颯太兄ちゃーん!」


背後から声がする。振り向くと、菜々が駆けてきた。


「も~、待ってよ~」


息を切らしながら菜々が追いついてくる。その姿に玲衣の目が広がった。


「双子?」


「ああ、うん。こっちが菜々」


「はじめまして! 結城菜々です!」


菜々は元気よく挨拶した。玲衣は二人を見比べて、それから僕を見た。その目に何か言いたげな色が浮かんでいる。


「颯太、なんで言わなかったの?」


「え?」


「家族のこと」


玲衣の声は静かだったが、その中に微かな非難が混じっていた。


「あ、いや、タイミングがなくて……」


「そう」


短い返事と共に、玲衣は歩き始めた。その背中に、何か言うべき言葉を探す。でも、何も思いつかない。


「彼女、怒ってる?」


菜々の問いに、首を傾げる。


「さあ……」


里奈は無言で玲衣の後ろ姿を見ていた。その目に何か思うところがあるようだった。


三人で歩き始める。菜々が間に入り、活発に話す。里奈は黙って聞いている。そして僕は、前を歩く玲衣の背中を見つめていた。


学校に着くと、中学棟と高校棟で別れる時間だ。


「じゃあ、放課後は……」


菜々が言いかけたところで、里奈が彼女の制服の袖を引っ張った。


「委員会、忘れた?」


「あ、そっか」


残念そうな顔をする菜々に、思わず頭を撫でる。


「また明日な」


「うん!」


菜々は笑顔を取り戻し、里奈と共に中学棟へ向かった。その後ろ姿を見送ってから、高校棟へ向かう。


玲衣の姿はもう見えなかった。


教室に入ると、玲衣は既に席についていた。目が合ったが、すぐに目を逸らされた。どうやら、本当に怒っているらしい。


席に着き、窓の外を見る。中学棟の方角には、菜々と里奈の姿はもう見えない。


家族が増えた。そのことで、何かが変わり始めている。


静かな日々は、少しずつ崩れていく。

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