第9話 レイチェル、礼儀の門を叩く
「……また、先生がお辞めですの?」
屋敷の応接間に響く声は、驚きと諦念と、ほんの少しの退屈を滲ませていた。ソファの上で背筋をまっすぐに伸ばしたまま、レイチェルは紅茶を口に運ぶ。その所作は、既に十分に優雅とすら言えたが――。
「今回の先生は、かの有名なエセル=ドルトン先生。公爵家の御子息を三人も指導された実績を持つ、由緒あるご婦人でしたが……」
「ええ、存じておりますわ。『礼儀は剣よりも鋭く』の名言で知られるお方ですわね。厳しいと評判でしたけれど」
「ですが……その、レイチェルお嬢様のご質問に、困り果ててしまわれたようでございます……」
レイチェルはカップを置き、澄ました顔で問い返した。
「わたくし、何か失礼なことを言いましたかしら?」
「い、いえ、決して……!ただ、“なぜ跪くのか、それは相手が敬うに足る者か否かで決めるべき”と……おっしゃったとか……」
「それのどこが悪いと?」
問い返すその瞳は真剣そのもの。形式に従うよりも、物事の真偽を問う。それがレイチェルの持ち味だ。だが、指導者たちにとっては時に答えに窮する質問でもあった。
「エセル先生は、深いため息をつかれて……“私は礼儀を教えられても、哲学までは無理です”と仰って……そのまま……」
「お辞めになったと。ふうん、残念ですわ」
つまらなさそうにレイチェルは小さく肩をすくめた。
「これで、三人目かしら?」
「はい……。お嬢様に相応しい指導者を探しておりますが……なにぶん、先生方の間で“あのご令嬢にお教えするのは不可能”と評判になっておりまして……」
屋敷の空気がどこか重苦しくなる中、レイチェルだけがどこ吹く風といった様子で席を立つ。
「でしたら、教室に通います。私が礼儀を学ぶ意志があることは、行動で示さなくてはなりませんわね」
そして彼女は、ひとりの少女として――貴族としての礼儀の門を叩くことになる。
☆ ☆ ☆ ☆
街のはずれ、小高い丘の中腹にひっそりと建つ石造りの屋敷。飾り気のない門と、控えめに揺れる木板の看板が風に揺れていた。
「……ここが、行儀作法教室?」
レイチェルは興味津々といった様子で門の前に立ち、屋敷を見上げる。その素朴で飾り気のない外観に、却って胸が高鳴るのを感じていた。
「お嬢様。このような質素な場所に心を躍らせるとは……さすがでございます」
控えていた専属メイドのシエラが、尊敬のこもった声で応じる。
「私の見るところ、こちらの教室はお嬢様にこそふさわしゅうございます。格式や見栄よりも、実直に礼節を学びたい者たちが集う場所――特に、下級貴族のご令嬢方が多く通っておられると伺いました」
「ふふ、見て直ぐにわかりましたわ!きっと素敵な出会いがわたくしを待っているのですわ!」
そう言って、レイチェルは軽やかに門を押し開けた。
屋敷の中は簡素だが清潔で、広間にはすでに十名ほどの少女たちが集まっていた。彼女たちは貴族らしい整いを保ちつつも、各々自由な装いをしており、色とりどりのドレスや実用的なワンピース、質素だが丁寧な仕立ての衣服などが混ざっていた。
(専用の制服がないのね。……でも、なんだか自由で良さそうなのですわ)
広間に足を踏み入れたレイチェルに、何人かの視線が集まった。
「……あの方は、どなたかしら?」
「新しい生徒さんですわよね?あれほど気品のある方が、どうしてここに……」
ひそひそとした声が交わされるが、それは好奇心からくるものだった。教室に集まっているのは、地方の騎士家系や町の事務官方の文官など、家柄としては高くないものの、しっかりとした教養を受けさせたいと願う下級貴族の子女ばかり。
さ、レイチェル様自己紹介を。
「皆さまはじめまして、レイチェル=フォルンコートです。どうぞよろしくお願い致しますわ!」
教室の片隅で、一人の少女がそう告げるレイチェルを見つめていた。栗色の髪を小さくまとめ、質素ながらも丁寧に整えられた服装。姿勢は良いが、どこか控えめで物静かな印象の少女――ミレイナ・アーガトン。
席に着いたレイチェルがふと窓の外に目をやっている隙を見て、ミレイナは小さく息を吸った。
(……今なら、話しかけられるかもしれない)
緊張で指先が冷たくなりながらも、ミレイナは小さくスカートの裾を握りしめ、一歩踏み出した。
「……あの」
か細い声だったが、レイチェルはちゃんと振り返ってくれた。鮮やかな金髪がふわりと揺れ、澄んだ蒼眼がミレイナに向けられる。
「はい?」
思わずたじろぎそうになるのを、ミレイナはぎゅっと堪えた。
「わ、私……その、レイチェル=フォルンコート様に……いえ、あの、ずっと……お会いしたいと……思って、いました」
「わたくしに?」
「はい。以前の、聖女様のご活躍を耳に致しまして……このポルテアの町をお救いくださった、レイ……聖女様だと、気づいたので……」
レイチェルは一瞬、目を丸くしたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「まぁ、わたくしをご存知ですのね!あなたからお声をかけてくださって、本当に嬉しゅうございますわ!ミレイナさん、でしたわよね?」
その一言に、ミレイナの頬がぱっと赤く染まった。
ミレイナの言葉に柔らかく微笑み返したレイチェルが、ふと視線を巡らせると、ミレイナの背後でそわそわと様子を伺っていたもう一人の少女と目が合った。
「まぁ、あなたも……ご一緒ですの?」
声をかけられた少女は驚いたように目を見開いたが、すぐに控えめに頭を下げて、一歩前に出た。
「は、はい。わたくし、ルティア=ベイルと申します。父は関税局の下役で……その、身分は高くありませんけれど、勉学と礼儀だけはと思い……こちらの教室に通わせていただいております」
「まあ、ルティアさん。とてもご立派ですわ!わたくし、そういう真面目で努力なさる方、大好きですのよ」
レイチェルの言葉に、ルティアの表情がぱっと明るくなった。傍らのミレイナも、同じ気持ちを共有できそうな仲間を見つけて嬉しそうだった。
その瞬間、何かがほどけたように、三人の間に自然な空気が生まれた。
「それに……お二人とも、こちらの教室に通っているということは、これから何度もお会いできますわね!」
「はいっ、ぜひまたお話させてください!」とミレイナ。
「わたくしも……レイチェル様とご一緒できるなんて、思ってもいませんでした」とルティアが恥じらいながら微笑んだ。
礼儀作法教室の簡素な教室には、すでに何人かの子女たちが集まっていたが、その中でレイチェル、ミレイナ、ルティアの三人はひときわ異彩を放っていた。
身分も育ちも異なるが、気取らず、素直に向き合える――そんな関係が、静かに芽吹こうとしていた。
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