20
トールに「おやすみ」と声をかけ、きれいに食べ終えた食器を片付けた。
それを台所で洗い終えると、「おやすみなさい」とリルに挨拶して、陽菜は寝室へ向かった。
元々はエルの部屋だったが、今はエルが、夫不在のリルと一緒に寝ているため、空いたこの部屋を陽菜が使っている。
部屋に入ると、チロが小さな足音を立てて駆け寄ってきた。
陽菜はチロをそっと抱き上げ、そのままベッドに横になった。
愛犬と言葉が通じるなんて、今までの不幸がすべて洗い流されていくようだった。
「ねえ。チロは、どうして、この世界に来たの?」
問いかけると、チロは胸元で、もぞもぞと動きながら答えた。
「死んでから、陽菜が心配で……ずっと天国に行かないで、陽菜のことを見てたの。そしたら、女神さまにスカウトされたんだ」
チロは少し誇らしげに尻尾をふるわせた。そして、真面目な表情で、無邪気にこう言った。
「ほら、だって僕――かわいいから!」
陽菜の胸はキュンキュンした。目尻を思いっきり下げて、チロをこれでもかというほど撫でまくる。
「そっか〜、チロ、かわいいもんね」
――親バカである。
翌朝――
朝の空気は、少しひんやりとしていた。
かすかに立ちのぼる湯気が、火を落としたばかりの竈から名残惜しげに漂っている。
香ばしい匂いがまだ残る食卓で、食事を済ませた陽菜とリルは、湯飲みを手に向かい合って座っていた。
静かな時間が流れる中、陽菜の膝の上ではチロが丸くなって座っている。白くふわふわした毛並みが、朝の光を受けてほんのり輝いていた。
陽菜は湯飲みに視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。
「……リルさん。私、この家を出ようと思ってるの」
リルは一瞬、驚いたように目を丸くした。
「えっ……どうして? ずっといてくれて構わないのよ。ううん、いてくれたほうが助かるくらい」
少し間を置いて、何か思い当たったように言葉を継ぐ。
「もしかして、あのイノシシのこと? 家に入れないのは陽菜としては困るんだろうけど……。でも、そんなの、小屋でも作ればどうにかなるじゃない。あの子、大人しくていい子だし」
リルは少し笑ってから、真剣な目で陽菜を見つめた。
「ねえ、残ればいいのに。陽菜がここにいるの、私もエルも嬉しいのよ」
「いえ、前からずっと思ってたんです。ちゃんと自分の手で、生活の基盤を築きたいって。それに今は……チロとトールと三人で、家族として暮らしたいなって」
陽菜は、そっと湯飲みを置いて、リルの顔を見た。目は真剣だった。
リルは小さく「ふーん」と唇をすぼめてから、茶を一口すする。
「ん~……。だったらさ。前から村のみんなで話してたんだけど――村長になる気、ない?」
「そ、そ、そそそ――村長!?」
陽菜は、ほとんど椅子から飛び上がらんばかりに叫んだ。膝の上のチロがびっくりして「きゅん」と鳴く。
「陽菜がこの村を再興させたって、みんな言ってるのよ。本当にその通りだと思う」
リルは真面目な顔で言葉を続けた。
「今、この村で、陽菜ほど頼りにされてる人はいないわ。騎士団の人たちだって、村のまとめ役が不在のままだと困るみたいよ?」
そう言いながら、リルは立ち上がって、台所の窓をすっと開けた。
ひやりとした朝の風とともに、思いがけない顔が現れる。
そこには、なぜかカイルがいた。窓越しに視線がぶつかると、彼はびくりと肩を震わせた。
「ね? カイル」
リルが悪戯っぽく笑う。
「いや、あの、その、えっと……」
カイルは顔を赤くしてしどろもどろになり、視線を泳がせながら言葉を探していた。
どうやら、最初から一部始終を聞いていたらしい。
結局、カイルは家に招かれて、さっきまでリルが座っていた席に腰を降ろした。
リルはそっとカイルにお茶を出し、その隣に「よっこいしょ」と座った。
「……なんで、カイルがそこに?」
陽菜が訝しげに尋ねるが、カイルはこちらの問いなどは、まったく耳に入っていない様子だった。
「どうしようどうしようどうしよう……! 隊長に殺される……」
頭を両手で抱え、顔面は真っ青。額には玉のような冷や汗がにじんでいる。
「陽菜の監視だよ」
リルが、平然とした口調で言った。
「監視……?」
「まあね。もっともカイルの場合は、“監視”というより、“見守りたい”って感情が大きい気がするけどぉ~?」
茶化すような声音に、カイルの肩がびくっと震えた。
「ち、ちちちちち違うっ! だ、陽菜! これはその、気にしないでくれ!」
カイルは慌てて両手を振りながら、必死に否定する。顔は耳まで真っ赤だった。
陽菜は肩をすくめて、淡々と返した。
「うん。気にしてないけど」
その一言で、カイルは両肩をがくんと落とした。その後は、まるで電池が切れた人形のように、項垂れて動かなくなった。
――いちいち、忙しい人だな。
陽菜は心の中でため息をついた。
「それで、さっきの続きだけど――」
リルが湯飲みを置いて、まっすぐに陽菜を見た。
「復興が、ある程度落ち着けば、騎士団も王都に戻ることになるわ。だからこそ、人手がある今のうちに、村長の家をみんなで建てればいいのよ」
リルは身を乗り出した。
「それで、陽菜がそこに住めばいいの」
「いやいやいやいやいやっ!」
陽菜は即座に否定し、両手をばたばたと振った。
『陽菜、その案、僕も大賛成!』
チロは得意げにしっぽをふるふるさせている。
『チロ。少し黙っててねえ』
陽菜はぴくぴくと頬を引きつらせた。
「トールも一緒に住めれば、それでいいので、村長ってのは~……」
陽菜は曖昧に笑いながら言ったものの、額にはうっすらと汗がにじむ。
その様子を見て、リルはくすっと笑い、何気ないふうを装ってさらりと口を開く。
「あの子、まだ生後八か月くらいじゃない? まだまだ大きくなるわよ~」
「ええぇ!? トールが!? 今でも結構な大きさなんだけど……!」
陽菜の声が裏返る。一階の屋根をゆうに超えるトールの姿を想像しながら、顔がひきつった。
「でしょ? この村を代表するような、そうとう大きな家が必要になると思うの」
にんまりと笑みを浮かべそう言ったあと、リルは真面目な顔に戻って、陽菜に向き直る。
「でもね。この村の生産や建物の管理、それに人の流れを見て調整できる人って、今は陽菜しかいないのよ」
その声には、冗談とは違う重みがあった。
陽菜は、反論しかけた口をそっと閉じた。
チロのしっぽが、膝の上で静かに揺れている。
「あなたに、この村を――守ってほしいの」
リルが、静かに、しかしはっきりとした声音で言った。
陽菜は、息を呑んだ。
ふと頭の隅に浮かんだのは、かつての自分の姿だった。
深夜まで灯りの消えないオフィス。鳴り止まない電話。当たり前のように押しつけられる無茶な納期と、誰にも感謝されない毎日。
こんなにはっきり、誰かに頼られたのは、初めてかもしれないと、陽菜は思った。
陽菜の胸の内に、ほのかに、けれども確かな熱が芽生えていく。
誰かの役に立てるなら――必要としてくれる人たちのために、わたしは今、この場所にいる。
迷いはもうない。
「リルさん。……わたし、やります」
その声には、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
村長になる――自分には荷が重いかもしれない。でも、逃げたくはなかった。
陽菜はまっすぐにリルを見つめ、心の奥でその決意を深く刻んだ。
***
日がしっかりと昇り、空気も温んできたころ。詰め所のテント内は、まだどこかひんやりとしていた。開け放たれた入口からは、訓練を行う団員の声や、薪を割る音が遠くに聞こえてくる。
ロイは椅子に腰を下ろし、机の上に広げた書類にペンを走らせていた。報告書の束を一枚ずつめくりながら、要点を抜き出して纏めていく。淡々とした朝のルーティンだ。
そんな中、誰かがやって来た気配がした。カイルだった。
「定時報告には、まだ早いようだが?」
カイルは、ブーツの音をはっきりと響かせながら中へ進み、机の一歩前で立ち止まる。
「はい、監視がばれました!」
思い切りのいい、はきはきとした声だった。ぴしりと敬礼まで添えている。
ロイのペン先が止まる。
ロイは、ゆっくりと顔を上げた。眉間には深い皺が刻まれ、左のこめかみにうっすらと血管が浮かんでいる。
しばしの沈黙ののち、ロイは天幕を仰いだ。布越しに、陽の光を仰ぐ。
「……まあ、良い機会だ」
ぼそりと漏れたその声は、もはや怒る気力も削がれたという風情だった。
「これからは、堂々と見張れるな」
ロイの口元には、わずかな笑みすら浮かんでいた。
飄々としたその一言に、カイルは気まずく笑いながら、半歩後ずさりした。その場に留まるカイルに、ロイが呆れたような声で尋ねた。
「……まだ何かあるのか?」
ロイは、心の中で、もう今日は何もありませんように、と呟いた。
「はい」
カイルは気を引き締めると、陽菜が村長の件を承諾したことを報告した。
ロイの眉は僅かに動いたが、すぐに無表情に戻った。
「……そうか」
ロイは、それだけを呟いた。
***
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