18

 そのイノシシは、魔物となった母を、ずっと見守っていたのだろう。

 そして、かつて母だったものが討たれる光景も、見ていたに違いない。

 その瞳は、母と自分に起きた運命を見極めようとしてか、力強く、雄々しく輝いていた。


『陽菜、提案があるんだ。この子を、君の眷属にするつもりはない?』


 チロが、ぽふんと尻尾を揺らしながら言った。


『もちろん、野生で生きていくか、眷属になるかは、この子の意思に任せることもできるよ』


 陽菜はこくりと頷き、大きなイノシシの額に、自分の額をそっと寄せた。

 あたたかい鼓動が、かすかに伝わってくる。


 次の瞬間、イノシシの体が柔らかな白い光に包まれた。

 その光はどこか懐かしく、優しく、命の根源に触れるような気配を帯びていた。


『――あなたのママの、大切な記憶。勝手に見てごめんね』


 陽菜の言葉に、光の中でイノシシはわずかに鼻を鳴らし、ゆっくりと口を開いた。 


『気にするな。お袋のことどご救ってくれたんダス。むしろ、感謝したなんぼいダス』

 

 その声は、不思議なほど澄みきっていた。

 荒々しい見た目からは想像もできない、まるで物語の中の王子様のような、凛とした響きを持っていた。


『わたしと――わたしたちと家族になって、一緒に暮らそう』

 

 陽菜の差し出した言葉に、しばらくの沈黙があった。

 やがて、イノシシは目を閉じ、静かに頷く。


『家族か――あったかい言葉だな。うん……俺は、おめどの力になりたい』


 その一言が、陽菜の胸にじんわりと染み込んでくる。

 彼の意思は、健気で、力強く、そして、何よりも優しかった。


 陽菜は思わず、彼の大きな体に両腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。


『あなたの名前は――“トール”。これは、戦と農耕を司る、神の名前なの』


 しばしの沈黙ののち、イノシシ――いや、トールは静かに頷いた。


『トールか……。神の名に恥じぬよう、誠心誠意、おめどどご守るよ』


 その声には、もはや獣とは思えないほどの意思の光が宿っていた。

 どこか人間にも似た、強く揺るぎない芯が、そこに確かにあった。


 光がふっと収まると、その額にはチロと同じ紋章が浮かんでいた。

 それは、陽菜の癒しの力によって紡がれた絆の証だった。


「な、なんだ今のは……!」

「紋章が……浮かんだ……?」


 周囲がどよめく。ロイたち騎士団がざわつき、剣を半ば抜きかける者もいたが、陽菜の穏やかな表情に、誰もが次第に動きを止めた。


『じゃあ僕は、陽菜の癒環量が無くなりそうだから――』


 チロはそう言って、ふわりとその場で華麗に前転をすると、小さな――というか、真っ白な豆柴の姿に戻った。


 後には静かな、けれど確かな変化が、その場の空気を包んでいた。

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