第3話 黒雷(ヘグル)の森1

 午前一時。夜空には、完璧な円を描く月が静かに浮かんでいた。雲一つ寄せつけず天頂に鎮座するその姿は、まるで天の玉座に座す支配者のようだった。


 レイは偵察用装甲車八式影駆(えいく)の細長い車窓から、煌々と降り注ぐ月光に照らされた光景を無言で眺めていた。


 異常気象の影響だろうか。五月も半ばだというのに、飛び過ぎる木々の葉にはまだ薄く雪が載っている。外気温は三度を下回っていた。


 しかし、レイは高度義肢では感じることのできない、かつて肌で知った「寒さ」が恋しかった。ミラグレイスに包まれた体は冷たさすらも遮断してしまう。それはレイにとって、外界との間に引かれた透明な壁のように思えた。


 車内には静かな緊張が漂っていた。隣に座る東堂リクは重装備のまま目を閉じ、膝の上に銃を抱えている。眠っているようにも見えたが、全身には即座に跳ね起きられる張り詰めた気配があった。


 レイの脳裏には、作戦ブリーフィングでデバイス越しに聞いた旅団長の声がまだ鮮明に残っていた。


「第七ダム、南北朝鮮連合軍による占拠を確認。警備にあたっていた西部方面部隊隊員三十六名及び、ダム職員十一名の安否は不明。  敵は水門を閉じ、ダムを完全に掌握。取水制限は都市インフラ全体に影響し、大分市全域で停電と断水が続いている。  このままでは、取り残された民間人への被害は拡大する一方だ。  この寒さだ……死人も大勢出るだろう」


 これは単なる“任務”ではない。

 九州全土でダムが敵の手に落ち、数千万の市民が水と電気を失っていた。


 新生技術センターから派遣された融合体――レイとリクにとって、今回の作戦は初めて“自律戦闘権限”が与えられたものだった。AIと共に戦術判断を行い、その責任をも負う。

 ――まるで、一つの新たな「人種」としての戦争。


 不意に装甲車が速度を落とした。後続の武装車両が次々と脇をかすめて追い越していく。


「時間だな」


 リクが目を開いた。冷静さと怒りを同時にたたえた瞳だった。


 後部ハッチが開き、自衛隊員が二人に降車を促す。

 レイは短機関銃緋雷(ひらい)を手に、深く息を吐いて外へ出た。


 煙が白く視界を覆い、焼け焦げた草木の匂いに、鉄と硝煙の臭いが混じって鼻を刺した。林のあちこちから煙が立ち、火の粉が舞っている。


 かつて緑豊かだったこの地は黒く炭化し、あちこちに爆裂痕が口を開けていた。

 晴れた空に瞬く星すら、今はどこか嘘くさくレイには見えた。


 装甲車の隊員が、二人に敬礼し、短く「ご武運を」と告げる。


 これからレイとリクは、敵の監視網を潜り抜け、第七ダムを目指す。


 敵は、南北朝鮮連合軍の特殊融合兵部隊――《黒雷(ヘグル)》。


 彼らもまた義肢にAI制御を宿し、融合技術によって“人の域”を超えた存在だった。


 レイとリクはこれから森を抜け、第七ダムを目指す。


 ダム周辺は、地雷原とドローンによる空中監視網に覆われている。接近が発覚すれば、わずか数分で排除されるだろう。  静かに、目立たぬように、電子ノイズを最小限に抑えつつ進み、水門制御室を奪還しなければならない。


 別働隊の陸上自衛隊がダム正面から陽動を仕掛ける。それに敵が気を取られる隙を突き、レイとリクは裏手から制御室へ到達する計画だった。


 ふたりは舗装された道路を外れ、燻る森の中へと身を滑らせる。

 作戦開始まで、残り十五分を切っていた。


 AIユニットがノクティス・アイ(高感度暗視モジュール)への切り替えを告げる。

 視界が一変した。夜の闇に沈んでいた森が、青白い輪郭を持って浮かび上がる。


 レイとリクは駆けた。倒木も、岩も、崩れかけた斜面も、人工筋肉の力で軽々と越えていく。

 身体能力は、人間だった頃の数倍に引き上げられていた。


 斜面の中腹で、リクが唐突に立ち止まった。


「……感じるか?」


 低く、押し殺した声。


 レイも微かに頷いた。

 AIが感知した。敵融合体から発せられる、微弱な同調波――意識のさざ波だ。


「交信を試みてきてる」


 リクが呟く。


 レイの意識内に、情報の束が送り込まれてくる。思念に近いパケット通信だ。

 瞬時に翻訳がなされ、レイの脳内に言葉が刻まれた。


> 交渉は無意味だ。ここは我々の未来を守る砦とする。日本国は速やかに自衛隊を撤退させよ。




 レイは即座に応答を返す。


> ここは私たちの国。あなたたちの理想のために、国民を飢えさせていいとでも言うの?




> この土地は誰のものでもない。力あるものが、武力によって支配すべきだ。




> それは侵略者の論理よ。水欲しさに武力を振るったことで、どれだけの人が命を落としたと思っているの。




> 君たちが守るべきものを持つように、我々にも、命を懸けるべき未来がある。




> 綺麗ごとを並べないで。あなたたちには、この地に留まる正当な理由などない。




 交信は途切れた。

 沈黙だけがレイの心に残った。


 敵は――引かない。


 レイは奥歯を噛み締めた。戦いたくない。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。


 そのときだった。

 頭上から、複数の小型ドローンが落下してきた。木々に激突し、枝を砕きながら地面へ叩きつけられる。


「始まったか」


 リクが一言だけ呟く。

 腕を振り上げ、落ちてきたドローンを叩き落とした。


 陸上自衛隊による電磁パルス攻撃だ。

 高指向性のEMPが、敵ドローン群を一斉に無力化していた。


 前線ではすでに、殲滅作戦が始まっている。

 森の静寂を破るように、重火器の轟音が鳴り響き、地鳴りと爆炎が夜空を震わせた。


 無線越しに、怒号と指示が飛び交う。


 レイは呼吸を整えた。

 恐れも、逡巡も、戦場では致命的だ。


 生き延びるためには――戦わなければならない。






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シンギュラの子 第2部 taida @shintamiyagi

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