第5話

 それから数日、空模様は穏やかだった。


 吹雪の間に閉じられていた村の道は、俺とリラの手で少しずつ掘り出されていった。家々の屋根にはまだ雪が残っていたが、凍てついていた木材が、わずかにきしみを返すようになった。まるでこの村そのものが、眠りから覚めようとしているようだった。


 


 「見て、こっちの家……扉が開いたよ」


 


 リラが小さく笑った。雪に埋もれていた小屋の扉をこじ開け、中に入り込んだ太陽の光が、土間の上に斜めの筋を落としている。


 「ここって、誰の家だったんだ?」


 「たぶん……薬師のエカシの家。あたし、小さい頃ここで風邪薬をもらってた」


 「エカシってのは、長老のことか?」


 「うん。でも、あの人はちょっと違った。神の声を聴く人だったの。村の誰よりも“オイナ”を覚えてて、カムイと語る力があった」


 


 その言葉に、少しだけ胸が疼いた。


 ……語れる者。昔は確かにいたのだ。


 けれど今は、もういない。


 


 「だから、あんたが来た時──なんとなく分かったんだ。あたし、信じたの。エカシが言ってた“次の語り手”って、きっと、あんただって」


 


 そうか。


 リラにとって、俺はただの流れ者じゃなかったんだ。


 どこから来たのかも分からない、異邦の男。だけど、言葉が通じて、鼓が合った。


 それだけで、信じるに足るって思える世界。そういう場所が、ここにはある。


 


 「だったら、俺も信じるよ。……この村を、生き返らせるって」


 


 俺は小屋の隅にあった木箱を持ち上げた。中には、乾いた葉や古びた器がいくつか。割れたものもあるが、使えそうなものも少なくない。


 「使えるな、これ」


 「ほんと? じゃあ、あたしは次のチセを見に行くね。たしか、あっちの通りに鍛冶屋が……」


 「おう、気をつけろよ。雪庇には近づくな、まだ落ちてくる」


 


 リラが軽く手を振って、足取り軽く歩き出す。


 雪に足を取られながらも、彼女の背筋は伸びていた。言葉では言わなかったが、きっと彼女も感じているのだろう。


 ──村が、目を覚ましている。


 


 俺は小屋の中をもう一度見渡した。


 干し草の匂い、割れた器の欠片、壁に掛けられていた古い模様の布。すべてが、誰かの“生”の名残だった。


 ここに住んでいた人々は、確かに生きていた。祈り、語り、日々を積み重ねていた。


 それが、吹雪と飢えと病によって断ち切られた。


 


 ……だが、終わってはいない。


 この地に声がある限り、語る者がいる限り、それは“続いている”。


 


 ──俺が、その続きを、語る。


 


 小屋を出ると、風が頬を撫でた。


 それは寒さではなく、祝福のように感じられた。


 空を見上げると、雲の隙間から太陽がこぼれている。


 その光が、氷の表面で七色に跳ね返っていた。


 


 「よし……次は井戸だな」


 


 水があれば、火があり、火があれば食事ができる。


 食があれば、命が動く。


 ──ただ生き延びるんじゃない。ここで、“生きる”ために必要なものを、一つずつ、取り戻していく。


 


 そのとき、足元の雪がふるりと震えた。


 またか、と思って顔を上げると、今度現れたのは、昨日の獣とは違った。


 ふさふさの毛に覆われた丸っこい生き物──まるで雪玉に足と耳を付けたような姿。目が大きく、こちらをじっと見ている。


 


 「……お前は、誰だ?」


 


 問いかけると、風のように軽やかな声が返ってきた。


 


 『コロポ……あそぶ?』


 


 俺は一瞬、唖然とした。


 だが次の瞬間には、思わず笑いがこぼれていた。


 


 「遊ぶのは……後だ。今は仕事がある。でも、あとでな?」


 


 コロポ──その名は、この地の伝承にある“雪の精”だ。


 昔、子どもたちと遊び、時に道に迷った者を導く存在。


 もし本当にそうなら──この村は、間違いなく“目を覚ました”。


 


 声が届いている。


 俺の言葉が、確かにこの世界に“ある”という証明だ。


 


 「リラにも、見せてやらねぇとな」


 


 俺は、井戸へと向かって歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る