第4話

 「ホイサー……ホイサー……ヤンケ、ホイサー……」


 


 俺の声が空気を貫く。


 風は、さっきまでのように唸りを上げることをやめた。ただ、静かに、耳を澄ませるようにあたりを包んでいた。


 それはまるで、世界そのものが俺の“言葉”に耳を傾けているかのようだった。


 リラの鼓が、ぴたりと合った拍で響く。


 トン……トン……ヤンケ……トン……


 鼓動と祈りが重なり、俺の声に力が宿っていくのが分かる。これは呪文じゃない。魔法の詠唱でもない。ただの音でもない。


 魂の震えだ。


 


 「雪よ……眠れ。風よ……静まれ。声はここに在り、願いはここにあらん」


 


 言葉を重ねながら、俺は歩を進めた。


 一歩ごとに足元の雪が揺らぎ、音が反響する。石柱の文様が淡く光り、まるでそれに応えるように空が染まり始める。


 ──青ではない。


 淡く、春の霞のような色だった。


 それが一瞬だけ現れ、そして、霧のように消えた。


 その刹那、獣──ヤウンクル・カムイが、ぐっ……と喉を鳴らした。


 


 『聞こえたぞ。お前の声が……この地を満たした』


 


 低く、重く、だが確かに満足を含んだ声だった。


 


 『お前の祈りは、偽りではない。名を持たぬ風も、声なき雪も、確かに応えた。ゆえに──道を開く』


 


 獣の瞳が蒼く燃え、口元が少しだけ綻ぶ。


 その瞬間、世界が変わった。


 


 石柱から放たれた光が大地を這い、広場の中心に円を描く。刻まれた紋様が連なり、まるで古の門のような結界を形成した。


 その中心に、蒼く透明な光柱が立ち上がる。


 


 リラが息を呑んだ。


 「これは……精霊の《道標(ルウン)》……!」


 「ルウン?」


 「精霊の道。人がカムイの世界へ踏み入るための“許し”。かつて、この地を守った語り手だけが通れた道──」


 


 獣が、ゆっくりと前脚を踏み出す。


 


 『冬牙。これより、お前に“声の継承”を認める』


 『お前は《ユカ・カムイ》──語りと共にある者。風と語り、雪と歩み、命に寄り添う者』


 


 その言葉が俺の中に染み込んでいく。


 不思議と、恐れはなかった。ただ、俺の中で何かが“戻った”気がした。


 追い出されたわけじゃない。拒まれたのでもない。


 俺は、ここに来るべくして来たんだ。


 


 ──この地が、俺のチセだ。


 


 「……ありがとな」


 俺は頭を垂れた。


 それは敬意でも、崇拝でもない。等しく、生きている者への礼。


 


 ヤウンクル・カムイは、まるで満足したように目を細めると、霧のように溶けていった。光柱も、門も、音も──すべてが一瞬で消える。


 


 だが、風はもう、凪いでいた。


 朝の陽が、氷の表面を優しく照らし、きらきらと虹のような反射を見せている。


 リラが、ぽつりと呟いた。


 


 「春の……匂いがする」


 


 俺は、空を見上げた。


 灰色の空には、まだ白い雲がかかっている。けれど、その向こうには確かに、透き通る光が見えた。


 


 ──最果てに、春は来る。


 


 いや、違う。


 “呼ぶ”のだ。


 


 「さあ、次は──この村を、もう一度動かすぞ」


 


 俺の言葉に、リラが力強く頷いた。


 精霊の試練を越えた今、ここには“語り手”がいる。


 声が届く限り、命は繋がる。風は進む。


 


 世界は、変えられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る