第31話

 出航から五日目、海は信じられないほど静かだった。

 波は穏やかで、風は優しく、空はどこまでも高く青い。けれど、何かが違っていた。俺はずっと、それを肌で感じていた。目には見えない“境界”のようなものが、確かに船の周囲を包んでいた。


 精霊たちの声が徐々に遠ざかっていく。特に風と光の加護が、まるで霧の中に沈んでいくように沈黙を始めた。

 その代わりに、水の加護だけが明瞭に響いている。まるで、ここが“水だけの世界”だと言わんばかりに。


 俺は甲板に立ったまま、手のひらを海面に向けてかざした。

 波の流れがわずかに逆流している。風のない方向から押し返されるように、波が船腹を打つ。


 「……ここが、そうか」


 誰に聞かせるでもなく呟いたその瞬間、船が突然、停止したような感覚に襲われた。

 周囲の水が一斉に音を失い、世界が静止する。


 「導師、海の底から……何かが――!」


 見張りの兵の声が響いたと同時に、俺は胸の神印が熱を帯びるのを感じた。

 警告ではない。これは――“呼び声”。


 水の精霊が、俺に何かを示そうとしている。


 「全艦、警戒態勢を維持しろ。だが、攻撃はするな。まだ敵と決まったわけじゃない」


 ターニンの命令が即座に飛ぶ。

 緊張が張り詰める中、俺は一歩、甲板の端まで進み、祈りの印を組んだ。


 「ナーガよ、波の王よ。ここに我、契約者ナラヤン・ラーチャ。汝の眠りを妨げる意志なきことを示し、ただ、真を求めに参じたものなり」


 祈りの言葉が終わるや否や、海面が光った。


 水ではない。青白い、滑らかで、まるで鏡のような光が、海の表面を覆っていく。


 その中心が割れ、音もなく空間が開いた。


 “門”だった。

 この世と、何か別の領域を繋ぐ、古の力で閉ざされた門。

 水の精霊が導く、神話の奥に封じられた“失われた都市”の入り口。


 「……やっぱり、本当にあったんだな。水の都、ナンタラー」


 その名を口にした瞬間、俺の視界が歪んだ。

 光の渦が俺を包み込み、すべての音が遠ざかる。

 精霊の力でも、加護でもない、もっと原初の“何か”が、俺に触れてきた。


 次に目を開けたとき、俺はまだ甲板に立っていた。だが、空の色が違う。

 雲は深く、海は蒼黒く、船の周囲にはどこまでも穏やかな波が広がっていた。


 その中央に、あった。


 水上に浮かぶはずのない、沈んだはずの都。

 巨大な柱、半壊した神殿、そしてその中央に聳える逆三角形の水晶塔。


 確かに見た。伝承の中だけにあった“ナンタラー”が、現実のものとしてそこに在った。

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