第32話

 目の前に広がる光景に、息を呑んだ。

 信じられなかった。けれど、確かにそこに存在している。

 ナンタラー――海底に沈んだはずの、水の都が。


 塔の尖端は水面すれすれに浮かび、無数の柱や神殿が海中から伸びるように姿を現していた。

 古びた石造りの建物には苔が生い茂り、ところどころ亀裂が走っていたが、それでもなお威厳と神聖さを失っていない。


 まるで、時を超えて、俺たちを待っていたかのようだった。


 「ナラヤン、あれを見ろ」


 ターニンの声に我に返り、視線を移した。

 塔の根元、淡い光を放つ巨大な門が、ゆっくりと開き始めていた。


 呼んでいる。

 そう思った。

 理屈ではない。心が、魂が、そこに行けと叫んでいた。


 「俺が行く」


 誰に言うでもなく、自然と口からこぼれた。

 ターニンは苦笑して肩をすくめたが、止めはしなかった。


 「俺たちはここで待つ。だが、もし何かあったら全力で支援に入る」


 「助かる」


 そう言って、俺は軽装のまま海へと飛び込んだ。


 水が全身を包み込む瞬間、胸の神印が微かに震えた。

 水の精霊が、俺を護ってくれている。

 身体は沈まない。むしろ、まるで水と一体になったように自由に動けた。


 まっすぐに、光る門へと泳ぎ出す。


 門の中は、想像を超えていた。

 水はそこにあって、けれど俺を妨げなかった。

 まるで空気の中を歩くように、自然と足が大地に着いた。


 俺は慎重に、だが確実に進んだ。


 石畳の道、崩れたアーチ、朽ちた神像。

 すべてが、かつてここに“人が生きていた”証だ。


 そしてその中心。

 半壊した大神殿の前に、それは立っていた。


 白銀の鎧を纏い、巨大な水晶槍を手にした存在。


 人か、精霊か、それとも――神か。


 存在そのものが水と同化しているかのように、輪郭が揺れている。


 「……来たか、契約者よ」


 声が、意識の奥に響いた。


 その声に、俺は自然と膝をついた。


 恐れではない。敬意でもない。

 ただ、わかる。

 この存在は、俺がこれまで出会ってきたどんな精霊とも違う。


 「我はナンタラーの守護者。忘却されし王、ヴィスヌクラ。汝が求めしは、我が残した“真実”か?」


 俺は顔を上げた。


 「俺は知りたい。この海に何が眠っているのか。世界が何を抱えてきたのか。そして、これから何をすべきなのかを」


 ヴィスヌクラは、槍を掲げた。


 「ならば、試練を受けよ。汝が本当に“導く者”たるかを、我は見極める」


 次の瞬間、海中の神殿全体が震えた。


 水が竜巻のように巻き上がり、俺の周囲を取り囲む。

 水の壁、その中に無数の影が浮かび上がった。


 かつてナンタラーを守った者たちの記憶――

 そして、彼らが守れなかった“災い”の記憶だ。


 「……負けるか」


 俺は剣を抜いた。

 八つの加護が、俺の背に再び集う。


 ここで、証明する。

 俺が、ただ選ばれたのではないことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る