第30話

 王都カンチャナブリーへと戻る行軍は、静けさの中にあった。

 異変を退けた後の平穏というのは、どこか物寂しさを孕んでいる。

 兵たちの足取りは重くはないが、誰もがその背に一つの“記憶”を抱えていた。


 俺自身も同じだった。


 ナコン・パトム砦で感じたあの瘴気、そして将軍ジャトゥランが遺した最後の言葉――


 「守れなかった地でも、守り続ける意志がある。だがそれが、歪められることもある」


 それは、精霊の加護を得た今の俺にとっても、決して他人事ではなかった。

 力とは、常に危うい。

 意志を支えるものがなければ、それは容易に他者を傷つけ、信じていた正義すら崩す。


 だからこそ、導師として歩むこの道は、ただ精霊と繋がるだけでなく、人と人を繋ぐ責任をも伴う。


 王都が近づくにつれ、空気が変わった。

 森を抜け、川を越え、道端に点々と現れる農村に、子どもたちの声が戻っている。

 市場では干し魚の香りが流れ、染物の色が風に揺れていた。


 ああ、俺たちは――たしかに“守った”のだ。


 それだけで、胸が少し温かくなる。


 王都の外門にたどり着いたのは、夕日が街を金色に染める頃だった。

 王の命を受けた報告官たちが門前で出迎え、俺とターニンに深く頭を下げる。


 「王より、速やかに謁見するよう仰せがありました」


 「すぐに向かう。隊はそのまま休息を取らせてくれ」


 ターニンが端的に応え、俺と共に馬を進めた。


 王宮の玉座の間。

 ラーマ七世は変わらぬ眼差しで俺たちを迎えた。


 「ナラヤン・ラーチャ、そしてターニン・ヴィチャイ。汝らの働きに、我は深く感謝する。ナコン・パトムの鎮圧は、王国にとって第二の夜明けとなろう」


 王の言葉に、俺は頭を垂れる。


 「将軍の魂も、ようやく眠れました」


 その一言に、王の眉がわずかに動いた。


 「……よくぞ語ってくれた。王都でも異変を恐れる声は少なくなかった。だが、お前の行いはそれを静め、導いた」


 そのとき、側近の神官が一歩前に出る。


 「陛下、導師殿にひとつ、緊急の報告がございます」


 王が頷くと、神官は低い声で続けた。


 「東方海域、スラート・タニ沖にて、未確認の巨大な“精霊反応”が観測されました」


 俺は目を細めた。


 「……やはり、東か」


 ターニンが顔をしかめる。


 「もう休ませる暇もねぇのか、導師よ」


 「旅が終わらないのは、もう慣れてる」


 俺はそう言って、王の方を見た。


 「王よ、ご許可を。精霊の気配がある以上、俺の役目は“その意志を確かめる”ことにあります」


 「よかろう」


 王は即答した。


 「ならば、新たな調査隊を編成する。東方の海、今度は水の加護が主役となるだろう。……そなたの加護が、また世界を照らすように」


 こうして、東への旅が決定した。


 ナコン・パトムの地を清めたばかりの俺たちは、再び“未知”へと歩を進めることになる。


 そこに待つのは、かつて誰も触れたことのない“海の神域”。

 水底に眠る神話の残響か、あるいは――


 東の海――その名を聞いただけで、胸の奥がざわついた。

 まだ何も見ていないはずなのに、確かに感じる。あの場所には何かがある。精霊の意志でも、瘴気の残滓でもない。もっと根源的な、世界の底で蠢くような、深い呼吸のようなものが、確かに俺を呼んでいた。


 海を目指すと決めた日から、王宮の準備は早かった。王直属の海軍艦隊の一部が動員され、最精鋭の水軍部隊が東方遠征のために招集された。ターニンは再びその指揮を任され、当然のように俺の傍に立った。


 「どうせまた何かが起きるんだろ? だったら最初から一緒にいた方が早い」


 そう言って笑った彼に、俺は肩をすくめて応じるしかなかった。俺たちは気づけば、戦友になっていた。


 王都を出る朝、ミンが神殿の前で待っていた。小さな祈祷札を手に、微笑んでいる。


 「これはね、祖母の家に伝わる“海の加護札”よ。海の神様に挨拶する時に、これを水に浮かべてね」


 手渡されたそれは、藍色の薄布に精巧な刺繍が施されていた。波紋と魚と蓮の花。俺は深く頭を下げ、それを胸にしまった。


 「必ず、戻ってくる。何があっても」


 「うん。……行ってらっしゃい」


 その言葉に背を押されるように、俺は再び旅へと向かった。


 王都から東へ進み、サムットサコーンの港町に着いたのは三日後の朝だった。潮風が皮膚を刺すように湿っていて、空は澄んでいたが、どこか重い。見えない圧力のようなものが、海の向こうから流れ込んでくるような感覚があった。


 港にはすでに“ナーガ級”と呼ばれる大型戦艦が三隻、波間に揺れていた。俺とターニンはそのうちの一隻、旗艦“ルアン・マハーサティア”に乗り込むことになった。


 出航の日、甲板に立ち、俺は海を見つめた。遥か東方、まだ誰も踏み入れていないという“海の神域”があるという。スラート・タニ沖からさらに外れた沖合、精霊の声が途絶える境界線――そこには、古の時代に封印された“水の都”があると伝承にある。


 アスラのような明確な悪意ではない。だが、静かすぎる沈黙には、時として力が宿る。


 八つの加護のうち、水の精霊が今、最も強く俺に語りかけている。


 “この海は、まだ目覚めていない”


 その言葉が意味するのは、警告なのか、希望なのか。それを確かめるために、俺はこの航海に出た。

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