第19話
闇の精霊が眠るとされる地、それは「無の谷」と呼ばれる場所だった。
地図にも、その場所は曖昧にしか記されていない。
ただ、旅の中で出会った語り部の老人が、ぽつりと教えてくれた。
「サンティヤの塔の光が届かぬ崖の裏……そこに、誰も戻ってこない谷がある。闇の眠る、無の地だ」
太陽が落ちる直前、俺はその谷にたどり着いた。
光すら届かぬ漆黒の壁。
どこからか風が吹くわけでもなく、音もない。
ただ、存在するだけの“深さ”がそこにあった。
一歩、足を踏み入れた瞬間、景色がすべて塗りつぶされた。
視界が暗転し、音が消える。
風も匂いも、時間の感覚すらも失われる空間。
闇の世界。
俺は、ここで最後の加護を手に入れる――そのために来た。
「……ナラヤン・ラーチャ」
不意に、足元から声が響いた。
その声は、俺のものだった。
けれど、感情も温度もない、ただの“声”。
「お前は、ここまで何を得た?」
「力だ。そして意味だ。俺は、選ばれたから進んだんじゃない。進み続けたから、ここに立ってる」
「だが、お前が積み重ねてきたものは、すべて“消える”かもしれない。闇は、すべてを呑む。形も、名も、記憶すらも」
「それでも、俺は前に出る」
言い終えると同時に、闇が動いた。
黒い影が地面からせり上がり、鎧のような形をとった。
それは、まさしく“闇の化身”。
その手に握られているのは、漆黒の刃。
動きは滑らかで、沈黙の中にある鋭さがあった。
「お前自身が、お前の敵だ」
そう言って、影は襲いかかってきた。
俺はすぐに応じた。
火の刃を呼び、風で身を翻し、水で流し、雷で斬り返す。
だが、闇はそのすべてを“無効”にする。
俺の攻撃が、すべて空を切るように霧散する。
「……これは、“力”では超えられない試練か」
影の刃が肩をかすめた。
血は流れない。だが、“記憶”が削られた気がした。
あの夜、村でミンと話した記憶が、かすれていく。
「……っ!」
もう一撃。今度は脚に触れた。
兄と過ごした記憶が、薄くなっていく。
これが、闇の力――存在の“重み”そのものを削る力。
この影はただの敵ではない。
“俺”そのものだった。
これまで積み上げてきたすべてを否定し、
選び取ってきた道を疑わせ、
心の深層にある“不確かさ”を暴く存在。
だから、力では倒せない。
精霊の加護も届かない。
刃を振るうたびに、過去が削られていく。
火、水、風、地、雷、幻、光――
その一つひとつが薄れていく恐怖。
俺は、それでも立ち止まらなかった。
「記憶が失われても……意味が消えても……それでも、俺は“俺である”と信じる」
口にした瞬間、胸の中心――文様が強く脈打った。
火の熱が蘇り、水の流れが鼓動をなぞり、風が身体にまとわりつき、地が足元を固め、雷が視界を閃かせ、幻が過去を照らし、光が前方を導く。
加護は消えていなかった。
記憶が削れても、絆は魂に刻まれている。
影の剣が再び振り下ろされる。
だが今度は、俺の刃がそれを受け止めた。
赤く、青く、緑に、金に、白に、そして黒に染まる刃。
七つの加護がひとつに束ねられた、“契約者の剣”。
「お前が俺だというなら、俺の歩んできたすべてを、真正面から突き通す!」
剣が闇を裂く。
影の身体が崩れ、内から淡い光が漏れ出した。
だが、消えなかった。
影は崩れながらも、なお俺に問う。
「……その意志は、終わりを見たときも、変わらず在れるか?」
俺は迷わずうなずいた。
「変わらない。どれだけ先が闇でも、俺は“進む”と決めた。生きるとは、そういうことだろ」
その言葉に、影が微笑んだ。
そして、闇が光へと溶ける。
漆黒の中にあった核が浮かび上がり、俺の胸へと吸い込まれていく。
八つ目の加護――闇。
それは、拒絶ではなく“受容”の力。
すべてを抱き、否定せず、内包する力。
その瞬間、世界が反転した。
闇が晴れ、空が現れ、太陽と星が同時に輝いた。
八つの加護が、俺の中でひとつになった。
火、水、風、地、雷、幻、光、そして闇――
それぞれが異なる性質を持ちながらも、互いを拒まず、調和して存在する。
闇の試練を超えた今、俺はようやく“完全な契約者”となったのだ。
無の谷を抜けると、空は晴れていた。
だがその空は、以前とは違って見えた。
太陽の光の中にも、闇の奥行きがある。
風の中にも、地のような重みがある。
世界は変わらない。
変わったのは、俺の“目”。
すべてを見て、受け入れる準備ができたということだ。
それが、八つの精霊が俺に教えた“旅の答え”。
今、ようやく本当の意味で、王都カンチャナブリーへの道が拓けた。
その地では、いよいよ“召喚士選定”が行われる。
数多の候補者が集まり、それぞれが己の力を証明し、王と神官たちの審判を受ける。
そこに立つということは、王国の命運を背負う資格を問われるということ。
力を誇るのではなく、力を“どう使うか”を問われる試練。
俺はその場へ赴く。
選ばれるためではなく、選び、そして示すために。
自らが積み上げてきた道を。
そして、かつて村でミンに語った言葉を実現するために。
「──俺が見てきた世界を、お前にも見せる」
それは誰に対しての誓いでもなく、俺自身に向けた宣言だった。
ナラヤン・ラーチャ。
八つの加護を持つ者。
神獣ナーガの正契者。
その名が、いまやただの農民のものではなくなったことを、俺は受け止める。
この旅が終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだ。
――俺は、王都へ向かう。
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